texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[戦後日本写真史第5回/nikkor club #169 1999 summer:20-23]


『10人の眼』『VIVO』以後

 前回は、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向をとりあげ、今日、現代写真と呼ばれているような写真表現の空間のはじまり、すなわち、既成概念の否定、過去との切断そのものを目的にし、表現の意味を自らの姿勢によって確認していくような、新たな写真表現の独自性の在りようを、みてまいりました。
 さて、ここで、ひとつ注意を払っておきたいことがあります。それは、戦後の写真表現を、『10人の眼』や『VIVO』以前と以後とに分けて考えるとき、それ以前の写真家が、さまざまな意味で歴史的な雰囲気を感じさせる存在であるのに比べて、それ以降の写真家は、そういった雰囲気が希薄なことです。この連載では戦後写真史について時間軸に沿って書いてまいりましたが、『10人の眼』や『VIVO』以前の写真家については、その時間軸に沿った枠組みがそれなりに当てはまるにしても、それ以後の写真家には、かならずしもそれがしっくりと当てはまるわけではないのです。
 もう少し、具体的に言いましょう。『10人の眼』や『VIVO』以後の写真家の多くは、その登場時において注目すべき作品を発表していることはもちろん、それから現在にかけても、継続して第一線で活躍している場合がほとんどです。この連載では、そうした事情をできるだけ考慮しつつも、写真史という性格上、今後も、基本的には時間軸に沿って書いてはまいりますが、『10人の眼』や『VIVO』以後の写真の動向は、時間軸に収まらないような複雑さを孕むことをご含みおきのうえ、お読みいただければ幸いです。

報道写真の動向

 さて、前回は『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向を中心に語ってまいりましたが、むろん、50年代後半から60年代にかけての写真表現は、それだけにとどまるものではありません。
 経済的な復興がはじまり、高度経済成長の時代の兆しがみえてきたこの時代は、それゆえの新たな社会的な現象や問題が生まれた時代でもありました。写真表現もまた、そうした現象や問題と無縁であったわけではありません。とりわけ報道写真という分野では、新たな社会的な現象や問題を捉えようとする、写真表現の動きを見ることができるでしょう。
 例えば、かの名取洋之助ひきいる、『週刊サンニュース』そして『岩波写真文庫』で働き、その後、フリーランスの写真家になった長野重一は、のちに『ドリームエイジ』としてまとめられる、工業化社会や大衆社会が作り出した新たな都市の現実を、ユーモラスかつシニカルに捉えた写真を、60年代に発表していきます。
 また、60年代半ばに、『朝日ジャーナル』の「現代語感」、『カメラ毎日』の「人間花壇」シリーズなどで、富山治夫は、高度成長社会による急速な変化が生み出した矛盾した現実を、巧みなスナップ・ショットで的確に捉えています。
 急激な社会の変化は、都市だけではなく、日本全体の生活や文化の在りようにも、大きな問題をもたらしました。
 60年代のはじめから、フリーランスの写真家として水俣病を取材した桑原史成の仕事、農村を覆っていった高度成長社会の歪みを、60年代の半ばより取材した英伸三の仕事などは、ともすれば都市の成長によって見えにくくなりがちな問題を、粘り強い姿勢によって写真に捉えた例だと言えましょう。

メディアとの関わり

 ところで、前号で述べました、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向と、こういった報道写真の動向とは、今日からみると、報道写真と現代写真の違いをあらわしているようでもある、名取―東松論争などを視野に収めたとき、とりわけ、いささか相反する動向のようにもみえるかもしれません。
 しかし、そのような理解は、かならずしも間違ってはいないにしても、かといって、この時代の写真表現の在りようを、的確に捉えた理解ではないように思われます。
 と言いますのも、仮にそこに対立的な構図があるにしても、その背景には、経済的な復興、そして高度経済成長が生み出した問題という、大きな共通項が存在するからです。逆に言えば、共通の問題があるからこそ、そこに対立的な構図がかいまみえるのだとも考えることができるでしょう。また、その共通の問題というのは、広い意味で考えますと、写真家が撮る対象としてだけではなく、写真を発表する媒体としても捉えることができます。
 今日、この時代の写真を振り返るとき、私たちが見る写真はほとんどの場合、写真集や美術館などで再編されたものだと思われます。しかし、実際にはこの時代、報道写真家に限らず、『10人の眼』や『VIVO』の写真家を含めた多くの写真家は、雑誌というメディアを舞台に、自らの仕事を練り上げていったのです。そこでの写真のあらわれ方は、今日私たちが見るものより、雑誌という媒体の性格も含めて、はるかに問題提起的であり、また時事的であったと言えるでしょう。
 例えば、『10人の眼』や『VIVO』の写真家たちで言えば、のちに、『ある日ある所』『シカゴ、シカゴ』『都市』としてまとめられる石元泰博の仕事、『おとこと女』『薔薇刑』『鎌鼬』としてまとめられる細江英公の仕事、『地図』としてまとめられる川田喜久治の仕事、『日本』『おお!新宿』『戦後派』としてまとめられる東松照明の仕事、『王国』としてまとめられる奈良原一高の仕事などは、何らかの形で、カメラ雑誌などを中心に、雑誌というメディアと関わりながら作られた作品だと捉えることもできるのです。

60年代の意味

 このあたりの状況を、『サンケイカメラ』の編集長を務め、その後『季刊写真映像』の編集などにも関わった桑原甲子雄は、「1960年前後――戦後写真の転換期」という文章で、次のように振り返っています。
 「しかし、やがて戦後ヒューマニズムの幻想は、世界史的にもろくもやぶれてしまう。ともあれ、政治の規範にしたがうにせよ、報道というマス・メディアの機能的な映像にせよ、写真表現の表現意欲をみたすことにおいて、次第にそれらが不自由なものであることに気付いてくる。前者における自由の束縛、それはいかなる解放された体制社会がやってきても、なんらかの形で拘束されるものであろう。後者における商業主義の跋扈と、メディアに管理された映像制作の徒労と無意味も、ときに味気なく感ぜられるのはいたしかたない。今日、社会的リアリズムの呪縛はほとんど解かれた感もあるが、後者の存在は、その後の情報社会の無際限のひろがりによって、むしろ増幅されつつあることは言うまでもない」。
 「いずれにせよ、こうした状況へのリアクションとして、映像派と呼ばれる新しい世代が、戦後10年にして現れてくるのは必然的な勢いであった。ひたすら外部の世界の引き写し、対象の似姿の捕獲に写真することの真実を信じ、疑いを抱かなかった世代の惰性や、イデオロギーの主人もちといううっとうしさにたいしても、彼らはノーと叫ぶことをはじめた」。
 「…社会的リアリズムや報道写真がまったく無効になったのか、といえばそうではないだろう。むしろ、そういう1950年代の名辞が、時代の変貌のなかで色褪せてみえ風化現象にさらされているということだろう」。
 「…表現としての写真は今日、大衆社会的状況の中で錘りをおろしながら、根強く構造化されているわけであって、イデオロギーじみたことばは、すべて現在では危機にひんし、無効にみえはじめているというにすぎない。それよりも写真は、単一にただ『写真』というメディア独自の有効性によってのみ、いまその存在の証を主張しているようにみえる」(『日本現代写真史1945−1970』)。
 70年代後半に書かれたこの文章は、1960年前後の雰囲気を振り返っているだけでなく、その後の変容をも考慮に入れて、写真表現にとっての60年代の意味を捉えているという点で、たいへん興味深いように思われます。というのも、60年代の半ばには、高度経済成長という背景、イデオロギーの無効という雰囲気、「『写真』というメディア独自の有効性」という現象が重ならなければ、生まれえなかったような写真が登場してくるからです。

広告写真の動向

 そうした写真が登場してくるのは、広告という分野においてです。いわゆる教科書的な写真史においては、本流とみなされないような傾向もありますが、それらの現象が重なり合うのは、広告という分野をおいて、他にはありえなかったことを考えますと、60年代半ばのこの分野の重要性は、けっして小さなものではないと言えましょう。のちに『カメラ毎日』の編集長を務めた西井一夫は、当時の様子を次のように述べています。
 「もうひとつのヌーベル・ヴァーグは少し遅れて60年代に足を踏み入れて動き出す。コマーシャル・フォトグラファーたち。61年、早崎治が批評家協会新人賞を受賞し、篠山紀信が第一回APA賞をとる。深瀬昌久が『豚を殺せ』でデビューする」。
 「戦後の婦人科から、これらコマーシャル写真家への橋渡しはさしずめVIVOの佐藤明といったところだろう。63年の本誌グラビアページはこうして登場したコマーシャル派のオンパレードの観がある。横須賀功光、立木義浩、篠山紀信(4月号)、安斎吉三郎、高梨豊、大倉舜二(5月号)、藤井秀喜、北井三郎(8月号)、小川隆之(9月号)、林宏樹(10月号)といった具合だ」。
 「VIVOとこれらコマーシャル派の間にはおよそ5年ほどのデビューの違いがあり、この双方をヌーベル・ヴァーグというには無理がある、という意見もあるだろう。しかし、これまでの写真の到達点を出発点として、何をやっても構わないのだと写真表現をストーリー性や物語・ドラマ性の桎梏から解放するという視点からすると、このふたつはともにヌーベル・ヴァーグなのである」(『カメラ毎日』1987年9月号)。
 立木義浩の「舌出し天使」、高梨豊の「東京人」といった大特集、篠山紀信の「裸婦像」「熱い肉体」、横須賀功光ののちに『射』としてまとめられる「城」「射」といった、『カメラ毎日』を舞台としたこの時代の写真は、まさに、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向にみられる、既成概念の否定、過去との切断という、新たな写真表現の独自性の在りようの、ポジティブな展開と言えるのではないでしょうか。西井は別の一文で、こう言っています。
 「当時、スタジオで『食いがいか? 生きがいか?』という言葉まで流行したらしいが、この頃のコマーシャル写真家たちのバイタリティは驚くべきほどだ。そしてこの頃の『カメラ毎日』は、ドキュメンタリーでもなく、記録でもない用途不明の写真を生む媒体として時代にアイデンティティを刻印できたのである。コマーシャル写真家に、コマーシャルではなく、報道でも、芸術でもない、だから“写真”としかいいようのないものを撮らせたのだ」(『写真装置』#1)。

現代写真の転回点

 こうして、一方で高度経済成長の時代から、さまざまな影響を受け、またそうした時代を体現し、また他方で、さまざまな形で、既成概念の否定、過去との切断という認識を深めていった写真表現は、60年代の後半から70年代にかけて、大きな転回点を迎えることになります。ひとことで言えば、既成概念の否定、過去との切断という認識が、社会や従来の表現といった写真表現の対立物とみなしうるようなものにだけではなく、写真表現そのものにも向けられるようになってくるのです。それゆえ、その転回点はまた、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向や、その同時代の動向によって見出された独自性の質をも、ぬりかえずにはおかないでしょう。そういった転回点、そして、そこで変容していく独自性の質とは何か。次回は、そうした状況を象徴するような動向と、そこでの写真家たちの在りようをめぐってみたいと思います。

(文中敬称略)