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[戦後日本写真史第4回/nikkor club #168 1999 spring:84-87]


『10人の眼』と『VIVO』

 「1956年(昭和31年)という年は不思議な年であった。それはいままで戦前からの蓄音機から流れていた歌が、こんどはステレオに切り換わったような年なのだが、多くの人はそんなことにお構いなしであった。…カメラ・ブームは写真のブームも呼んだが、それに応じてたくさんのカメラ雑誌(この年に17冊もあると聞いた)が生まれ、拡大した写真人口をお互いに喰いあっていた。…ある種の解放と緊張の一時期は過ぎ去りつつあった」(『日本現代写真史1945-1970』)。
 前回は、1950年代前後の写真表現の特徴、その背景となった経済的な復興について触れましたが、この言葉は、それによってもたらされた変化を、よく物語っているように思われます。
 50年代半ばから60年代にかけての写真表現を捉えようとするとき、かならず登場してくるのは、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向です。これまで、幾度となく語られてきたこととはいえ、この動向は、なかなかつかみにくい側面も持っておりますので、今回はそのあたりについて、やや丁寧にめぐってみたいと思います。
 冒頭の言葉は、写真評論家の福島辰夫が後にこの時代を振り返って記したものですが、『10人の眼』は、1957年に、その彼が組織して開催された写真展です。参加者は、石元泰博、細江英公、東松照明、常盤とよ子、川原舜、川田喜久治、丹野章、中村正也、奈良原一高、佐藤明。その時の案内状に、福島はこのように書いています。
 「写真界はいま大きく変ろうとしています。これからの写真について誰でもが考えなければならないときです。こ丶にお互に認めあった者どうしが集って展覧会を開きました」。
 『10人の眼』展は、58年に常盤とよ子、川原舜、石元泰博を除く7人で第二回展が、59年に、常盤とよ子、川原舜を除く8人で第三回展が開かれています。そして、3回の展覧会が終わったあと、それを契機として、川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明、奈良原一高、細江英公がメンバーとなって、結成されたセルフ・エイジェンシーが『VIVO』です。

 

「新しい写真」

 現在から振り返るとき、日本現代写真のパイオニアとも言うべき、そうそうたる顔ぶれがならんでいる、『10人の眼』や『VIVO』の写真家やその作品の重要性は、いわずもがなのことに見えるかもしれません。しかし、当たり前のことながら、忘れてはならないのは、50年代半ばから60年代にかけてという、この時期においては、彼らもまた、まぎれもなく若手の新人写真家たちであったということです。『アサヒカメラ』60年9月号の、「新しい写真表現の傾向」という文章で、渡辺勉は、次のように言っています。
 「混乱やゆきすぎも次第に解消され、やがて落ちつきを取り戻した写真という独立国は、一つの軌道に乗って近年めざましく成長を遂げた。そして最近では、これまでにみられなかったような新しい傾向が、独立の土壌から芽生えてきていろいろと話題を呼んでいる。たとえば東松照明、奈良原一高、今井寿恵、細江英公などの作品がそれである」。
 「ところでこれらの若い世代の写真家たちの作風は、なぜ従来の写真の行き方と異なっているのだろうか。それは一つには、彼等は写真が独立した後の平和時代に育った写真家なので、過去の植民地時代のゆきがかりにとらわれることなく、写真の視覚的表現力を自由に探求することができるからである」。
 「それを具体的な作風と表現の上で指摘するならば、従来の写真表現よりも、より一層映像そのものに深い関心をよせ、その特徴的な性質を積極的に駆使しようとしているところに相違があると思う」。
 これらの言葉は、この時期の写真表現の在りようを、端的に言いあらわしているように思えます。ところで、渡辺のこの発言は、思わぬ波紋を呼ぶことにもなります。ドイツ流のフォト・ジャーナリズムを日本に移入したことで知られる、名取洋之助が翌10月号に、「新しい写真の誕生」と題した反論を寄せるのです。
 「『新しい写真』とか『映像』とかいう言葉は写真の新しい傾向をさすものらしいが、その言葉の意味づけや使い方には、大分混乱があるように思う」。
 「確かに、彼らの写真は今までの写真、もっと正確にいえば、戦後の写真界で主流となっていた写真とはずいぶんちがう。…しかしその手法、あるいは結果だけを、問題にするならば、決して新しくはない」。
 「三十年も前、ダダイストの影響の下に生まれたヨーロッパの商業写真、モード写真などとたいへんよく似ている。似ているどころかほとんど変わらないと極言さえできるものもある。だとすると、彼らだけがはたしていうところの『映像』を重視しているのだろうか」。
 このように言う名取は、自身の報道写真論を軸にしながら、若い世代の写真を比較検討し、次のような結論を導き出していきます。
 「『新しい写真』の特色は、それを構成している個々の写真の新しさではない。それはとくに新しくさえもないのだ。今述べてたような判断も、評価も、一枚でなく、全体を見ることではじめてできることなのだ。何枚かの写真の画面と、その配列の総合として生まれる効果、それこそが新しいものとして評価されるべきであり、手法が似て、異質なものを、同列に見るべきではなかろう。また、若い写真家たちが、若い人をテーマにしているということだけにまどわされて、どこが『新しい』かを見失ってはならない」。

名取―東松論争

 さて、渡辺や名取の文章の中で、若い写真家の代表的存在として、たびたび例にあがっていた東松照明が、翌11月号でさらに、この名取の文章に対して、「僕は名取氏に反論する」という文章を寄せています。これが、いわゆる名取―東松論争と呼ばれるものです。
 名取は先の反論のなかで、東松について、「報道写真は特定な事実、特定な時間を尊重する。前にも書いた通り東松はこの報道写真の、特定の事実尊重を捨てた。時とか場所とかに制限されない方向に進もうとした。逆にいえば、報道写真とは、時間、場所にとらわれないことによって絶縁してしまったのだ」、と述べています。東松は、そのような名取の報道写真を軸に考える視点そのものを、真っ向から否定していきます。
 「かりに僕が、いわゆる報道写真家だったとしても、途中で特定な事実尊重を捨てたおぼえはない。いわゆる報道写真を拒否したまでだ。名取氏は、僕が『報道写真家としてスタートした』と思い違えることで、換言すれば、既成の事実として僕を位置づけることで、真実を見失ったのである」。
 「報道写真という言葉が持つ重量感は、すでに過去のものである。かつて、ドイツから日本に報道写真の理論を輸入した最初の人が名取氏だったとすれば、その功労に敬意を表することを惜しむものでは決してない。しかし、写真の動脈硬化を防ぐためには『報道写真』にまつわる悪霊を払いのけて、その言葉が持つ既成の概念を破壊することだと僕は思う」。
 こうした一連の論争のなかで、問題になっているのは、けっきょく、どのようなことなのでしょうか。渡辺は「新しい写真」を強調し、名取は報道写真を軸にしつつ、「新しさ」そのものの検証を唱え、東松は「報道写真」そのものを否定しています。それぞれの文章は、それぞれの論を読む限り、いたって正論に響くものなのですが、それゆえ、それぞれが拠って立つ土台の違いがきわだってもいるようです。
 言い換えるなら、今日、根本的に噛み合うことのない、この論争を顧みるときに浮かび上がってくるのは、論点とそれをめぐる議論ではなく、「新しさ」そのものを価値とすることに対する名取の執拗な拒絶、そして、「既成概念」そのものに対する東松の根底的な否定ではないでしょうか。つまり、この一連の論争では、いっけん具体的な現象をめぐっているように見えながら、じっさいには価値観の土台をめぐる、とても抽象的な論議が行き交っているように思われるのです。

 

過去との切断

 はじめに、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向には、つかみにくい側面があると言ったのは、この抽象性についてです。『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向にかいま見られるのは、過去の写真表現を継承し展開していく姿勢ではなく、逆に、それとの切断において自らを見いだしていこうとする意志のようなものです。では、そういった動向は、過去の写真表現と自らを切断することで、何を目指していたのでしょうか。
 じつは、先ほどの東松の文章には、「若い写真家の発言・1」というタイトルも付されているのですが、そのページには「若い写真家の発言・2―ある未知への発端」として、次のような奈良原一高の文章も収められています。
 「作家というものは、しきりに生きたいと思い、自分の作品の制作に関しては夢中だが、自分自身のこととなると、これはまたさっぱりふり返ってみたこともない。そして僕はそうであっても一向にかまわないと思っている」。
 「制作する瞬間においては、一枚の写真の成立はその作家にとっても貴重なものであり、そのためにこそエネルギーをしきりに費しているわけだが、その作家の人生にとってはほとんど問題にするに足りない。そしてまた、今日一枚の傑作を生むということ自体、どれほどの重要性があるか疑問である」。
 「僕は職業としてカメラマンを選んだ覚えは一度もない。ライフ誌でいうグレート・ビッグ・フォトグラファーを前途に夢みたこともむろんなかった」。
 ここで奈良原は、東松のように、名取の視点に直接反論はしていないものの、たんたんと自らの価値観と姿勢を述べたこの文章からは、かえってその分はっきりと、過去との切断があらわれていると捉えることもできるのではないでしょうか。
 こういったことを踏まえて考えてみると、『10人の眼』や『VIVO』という呼称が、たとえば「リアリズム」のように具体的なものではなく、とても抽象的で、何かを指し示すというものではないように、それに象徴される動向に見られるのは、過去の写真表現との切断そのものを目指すことへの、当時の若い写真家たちの共感ともいうべきものであるように思えます。

日本現代写真のはじまり

 冒頭に引いた文章で、福島は当時の若い写真家たちとのつながりを、こう述べています。
 「未知の写真の創出に向かって飛び立てる、とびきり飛翔力の強いやつ――1956年の時点で、われわれはお互いにその仲間を見つけるのに、たいして手間どらなかった」。
 「そして会って見ると、写真で判断しても、会って話してみても結局は同じことで、写真で感じられたことは、会って感じられることと見事に重なるのだった」。
 こうして育まれていった、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向は、過去の写真表現への根底的な否定を力に、写真表現に新たな土壌を切り開いていきます。そこでの、それぞれの写真家やその作品の重要性は自明のこととして、ここで注目しておきたいのは、その土壌が既成概念の否定、過去との切断そのものを目的にすることで、共感によって切り開かれていったことです。
 たとえば、いわゆる土門拳のいわゆるリアリズム運動がもたらした写真表現の空間は、過去を否定しつつも、そのこと自体が目指されて形作られていたわけではありませんでした。それゆえ、また、土門拳という指導者的な存在や、「リアリズム」という言葉が必要とされたのです。しかし、既成概念の否定、過去との切断そのものを目的にすることで形作られた、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向における写真表現の空間は、『10人の眼』展の案内状の文章にあるように、お互いに認めあうことで、その在処を自己確認するほかないような、独特の性質のものだったのです。
 この独特の性質こそ、渡辺が注目し、名取が拒絶した、「新しい写真」あるいは「映像」ということの核心に、ほかならないように思われます。そしてここに見られる、既成概念の否定、過去との切断そのものを目的にし、表現の意味を自らの姿勢によって確認していくような、こうした写真表現の独自性の在りようのはじまりはまた、今日、私たちが現代写真と呼んでいる写真表現の空間のはじまりでもあったように思われるのです。

(文中敬称略)