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[戦後日本写真史第3回/nikkor club #167 1999 early spring:102-105]


カメラ雑誌の復興

 前号では、土門拳のいわゆるリアリズム写真運動を中心に、戦後まもなくの、日本写真の姿をめぐってみました。しかし、むろん、戦後の日本写真のはじまりは、それのみで語りつくされるものではないでしょう。
 戦後、さまざまなものが復興していったなかで、写真も徐々に多くの人々の関心を呼ぶようになっていきました。そうした現象を典型的に物語るのは、戦争中に休刊を強いられていたカメラ雑誌が、次々と復刊し、そして、新たなカメラ雑誌が創刊されていったことでしょう。1946年の『カメラ』(アルス)を皮切りに、『光画月刊』(光画荘)、『写真手帖』(国際写真出版社)、『フォトアート』(研光社)、『フォトグラフィ』(フォトグラフィ)、『アサヒカメラ』(朝日新聞社)、『日本カメラ』(光芸社)、『カメラファン』(イヴニングスター社)、『サンケイカメラ』(産業経済新聞社)、『カメラ毎日』(毎日新聞社)など、多くのカメラ雑誌が、50年代にかけて刊行されていきました。
 また、フォト・ジャーナリズムの分野にも注目しなければならないでしょう。46年には『世界画報』(世界画報社)や『サン写真新聞』(サン写真新聞社)が、47年には、ドイツ流のフォト・ジャーナリズムを身につけ、戦前から報道写真に深くかかわってきた名取洋之助が編集に携わった、『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス)が刊行されています。『週刊サンニュース』は、49年に廃刊に追い込まれますが、名取は50年から、『岩波写真文庫』(岩波書店)の編集にかかわり、引き続き、写真による情報伝達に取り組んでいきます。
 このような状況について、60年前後に6年間『カメラ毎日』の編集長を務めた岸哲男は、次のように振り返っています。
 「いまと違って終戦直後は、プロ写真家が写真を発表する場としては『中央公論』『世界』など二、三の総合雑誌を除いては、カメラ雑誌しかなかった。戦後、経済よりも政治よりもいち早く復活したのはジャーナリズムであるが、カメラ雑誌はこれらのプロ写真家に作品発表の場を提供し、いっぽうアマチュアの月例写真コンテストを優遇するという二本立てで出発した」(『日本現代写真史1945−1970』)。
 カメラ雑誌のブームともいうべきこうした状況は、さまざまな雑誌の創刊や休刊・廃刊をくりかえしながら、のちに徐々に下火になってゆき、85年の『カメラ毎日』の休刊をシンボリックな区切りとして、かならずしもカメラ雑誌が写真表現を主導していくわけではない状況に変容していきます。とはいえ、このような構図そのものは、今日でもさほど変わっていないように思えるだけに、その構図が、この時代に生じたものであるということは、注目しておくべきでしょう。

主観主義写真

 カメラ雑誌ブームのピークの一つは、55年頃で、カメラ雑誌の数は10誌をこえ、読者のアマチュア写真家は300万人を数えたといわれています。この時期はまた、土門がブリヂストン美術館での講演で、「1954年の春をもって第一期リアリズムは一応終わった」といっているように、リアリズム写真運動が低調になっていった頃でもあります。前号で述べたように、土門のいわゆるリアリズム写真運動もまた、カメラ雑誌を主な舞台として展開されたものですが、読者層の拡大にしたがって、より幅広い写真表現が求めはじめられていたともいえるでしょう。
 このような背景のもとで、『カメラ』の54年4月号に「モダン・ユーロピアン・フォトグラファの主観主義写真」が掲載されます。これは51年に、ドイツのオットー・シュタイネルトが展覧会を企画開催し、52年に同名の写真集を出版して話題を呼んだ『サブジェクティブ・フォトグラフィ』から、ラスロ・モホリ・ナジ、ハンス・ハマーシュケントなどの写真を紹介したものです。
 『サンケイカメラ』は、55年から56年にかけて、カメラ雑誌のなかでもこの動向を積極的にとりあげ、56年末には同誌主催の『国際主観主義写真展』が、東京、日本橋高島屋で開催されています。この展覧会は、シュタイネルトが選んだ14カ国、75名の作品に、滝口修造、阿部展也、樋口忠男、本庄光郎ら約40名によって結成された日本主観主義写真連盟の会員の作品、奈良原一高、今井寿恵、一村哲也、石元泰博、植田正治、後藤敬一郎、大辻清司らの作品が加えられたものでした。
 しかし、この主観主義写真の熱は、さほどながく続くことなく冷めていきます。岸は、このあたりの事情について、こういっています。
 「もともと提唱者西独のオットー・シュタイナートの命名したSubjektive Fotografieすなわち主観的写真ともいうべきものを、『主観主義写真』と訳して受け取ったことにも問題がある。写真の機能の持つ自然主義的描写の世界から離れて、あらゆる写真技術を駆使して作者の思想や人生観を能動的に画面に打出そう、そのためには作者は主体性を確立しなければならぬというわかりきったシュタイナートの主張を、お仕着せのイズムとして受け取ったため、形の上の奇抜さを追う形式主義、暗室における特殊操作を重んじる技術主義だけに終わり、また一時起こった主体性論争も、結着を見ないまま尻ぎれとんぼになった」(『戦後写真史』)
 主観主義写真について記されたものを読んでみますと、このような見解に代表されるように、おしなべていささか冷淡な印象があります。こうした冷淡さそのものにも、興味深いものがあるように思われますが、それは追って考えることにしましょう。
 ここで述べられているように、一つの運動としての主観主義写真が短命で終わった理由としては、移入された形式が、まさに形式的に展開されたということが大きいでしょう。単純化していえば、主観主義写真は、写真の客観的、記録的な側面が強調された、いわゆるリアリズム写真と対立的に、写真の主観的、表現的な側面のみが強調されたきらいがあり、それゆえ、対立物としての役割を果たしたときが、その使命を終えるときでもあったということではないでしょうか。

裸婦ブーム

 さて、教科書的な写真史ではあまり言及されないことかもしれませんが、戦後まもなくの日本写真を物語る現象として、ここでとりあげておきたいことが、もう一つあります。それは、ヌード写真についてです。戦後ただちに刊行された写真集は、圧倒的に裸婦像だったといわれているように、ヌード写真のブームは、戦後の開放感と写真表現の関係をもっとも端的にあらわしているように思われるからです。
 たとえば、50年代の半ばに100円で出版された河出新書のなかの、『現代のフォトアート』というシリーズで、「リアリズム篇」「ポートレート篇」などと並んで、「ヌード篇」がいち早く出されていたといったことに、こうしたブームともいえるような現象の一端をうかがうことができるでしょう。「リアリズム篇」と「ヌード篇」が、こうして並置されていることには、ちょっとした不可解さを感じることを禁じえませんが、その不可解さこそが、戦後の開放的な気分をよく示してもいるのではないでしょうか。  その、『現代のフォトアート―ヌード篇』を監修した田中雅夫は、同書のなかで、日本のヌード写真について、次のようにいっています。
 「日本のヌード写真はいうまでもなく戦後の所産である。戦前に個人的にヌード写真の研究をしたという作家はもちろん何人もいるだろうが、封建社会のような空気の中でそれが自由に発表できなかったという事実を想起すれば、たとえ研究をしていた者があったにしても社会的、歴史的にはそれはあまり意味をなさない。だから日本のヌード写真は、いってみればいまようやくはじまったばかりで、史的推移を述べるにはあまりにも経過が短かい」。
 「それはとにかく戦後のヌード写真に対する写真家の関心と積極的な試みはかなりはげしいものがあり、ヌード写真時代ともいうべき事態を招来したことは事実である。そうして、そのもっとも先駆をなしたのは福田勝治、杉山吉良、土門拳の三人である」。
 「1949年になると、真継不二夫が“美の生態”で、大竹省二が“女とカメラ”でそれぞれヌード写真を発表し、続いて松島進、中村立行、狩野優、小石清、内田美胤、秋山庄太郎、尾崎三吉、三木淳、村井龍一、本庄光郎などの作品が登場しはじめる」。
 ここで田中が、土門をヌード写真の先駆者としてあげているのは、前号でも紹介した、『肉体に関する八章』といった写真を指してのことです。土門が、写真の可能性を探る試みとして撮った写真に、リアリズムとヌードがすでに混在していたということは、たいへん示唆的なことであるようにも思えます。
 ところで、この裸婦ブームをめぐっては、51年の『フォトアート』3・4月合併号に掲載された、数点のヌード写真が検察当局によって摘発され、雑誌が発禁処分になるという事件も起こっています。ヌード写真ブームというような状態は、この頃を境に徐々に沈静化していったようですが、ヌード写真はその後も今日にいたるまで、時に話題の震源地になり、時に写真家登場の舞台になるなど、たえず写真表現の重要な一部分を占めているだけに、こうしてそのスタートラインを確認しておくことは、あながち無駄なことではないでしょう。

戦後の「終わり」

 カメラ雑誌の復興、主観主義写真の展開、ヌード写真のブームと、戦後の日本写真のはじまりを物語るようないくつかの事象を、ここまでやや急ぎ足ながらめぐってみましたが、こうした事象の背景としての、社会全体の復興を忘れてはならないでしょう。55年頃には神武景気とともに、高度経済成長の時代がはじまり、56年7月には、戦後の終わりの宣言として論議を呼んだことで知られる経済企画庁による、次の一文を含んだ経済白書が発表されています。
 「いまや経済の回復による浮遊力はほぼ使い尽くされた。なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかも知れないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや“戦後”ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終った。今後の成長は近代化によって支えられる」。
 周知のことでもある、経済的な復興について、あえてここで確認してみたのは、ここまでめぐってきたような戦後の日本写真のはじまりそのものが、それに深く規定されたものでもあるからです。
 戦前において、プロ写真家とアマチュア写真家は、さほど交わることのない、いわば並行した存在でした。カメラ雑誌を通して、プロ写真家とアマチュア写真家が交わるというような構図は、経済成長のなかで、仕事の舞台を広げていき、その数も増加したプロ写真家層と、高価ながらも、カメラがけっして手の届かない趣味ではなくなることで、爆発的に拡大したアマチュア写真家層が生まれなければ、そもそもありえなかったことなのです。
 それにくわえて、この時代、写真というメディアは、現在のイメージと比べてはるかに新鮮で、まだまだ未知の可能性に満ちているように感じられた、新しい大衆的なメディアでもありました。それが、ほかのジャンルの表現にはみられない、写真表現独自の戦後の強力な推進力となったことは、間違いないでしょう。
 さまざまな試みが錯綜しながらも、強力な推進力に支えられた、このような写真表現の光景のなかで、終戦直後の、目的意識が抜け落ち、答えが見えない、空洞のような写真表現というイメージは、のりこえられ、すっかり払拭されていったかのようにもみえます。しかし、同時に注目しておきたいのは、そこでの試みの錯綜のなかで、新たな目的意識が形作られたわけではなく、むしろ、目的意識に対して冷淡な距離をとることで、そのイメージが気分的に払拭されていったことでしょう。
 なぜこのことが重要なのでしょうか。それは、こうした写真表現の気分が、のちの写真表現を育む豊かな土壌となるとともに、その後の写真表現が独自性を探るさいの、影のようなものとして、日本の写真表現を彩っていくように思われるからです。

(文中敬称略)