texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[作者の30年という歳月を凝縮した端正な写真集:森山大道『水の夢』紹介/日本カメラ1999年11月号:187]


 『水の夢』は、森山大道の1960年代終わりから90年代にかけての写真から、水が写っている写真を編んだ写真集である。収録されている写真は40点余りだが、作者のキャリアとほぼ一致する、およそ30年の歳月から選ばれた写真は、どれも味わい深く、珠玉の小品集とも呼ぶべき端正な写真集に仕上がっている。

 言うまでもなく、森山の写真の魅力は圧倒的で、他を寄せつけない強度がある。それは、饒舌よりも沈黙を誘い、写真そのものの重力によって独自に存在し、見る者を惹きつけてやまない。

 ところで、森山の写真の、この深い沈黙と重力は、どこから生じるものなのだろうか。
 本書に収められた写真が写されたおよそ30年間は、作者のキャリアとほぼ一致するとともに、現代性という枠組みによって写真が捉えられるようになった時代とも、ほぼ一致する。思いきって単純化するならば、現代性とは従来的なものを否定することで成り立つ枠組みであり、それ自体の内部には存在の意味を持たない。かつて森山の写真が、従来の写真を真っ向から否定する〈アレ・ブレ・ボケ〉という技法によって、現代写真の最先端に位置づけられたのも、そのことと無縁ではないだろう。

 もちろん、今日、写真表現にとって、現代性とはそれほど単純な枠組みではなくなっている。端的に言って、30年という歳月を重ねた今、現代性という枠組みそのものが従来的なものでもあるからだ。この逆説の中で、現代性という枠組みもまた、自らの内部に存在の意味を持たざるをえなくなっている。

 このようなことを考えてみるとき、30年という歳月を凝縮した、本書の端正な姿は、また違った興味深さを孕んでくる。

 表紙に記されたタイトルと作者名、ページごとに収められた写真、巻末に付された撮影地と撮影年という本書の体裁は、現在では写真集のスタンダードになっていると言える、オーソドックスな体裁でもある。それは、諸々の情報を必要最小限にとどめ、写真そのものを見せるための体裁だと言ってよいだろう。が、逆に言えば、それは、この体裁によってはじめて、写真が独自に存在しうるということでもある。そこでは、最小限の情報が、写真は写真であるということや、作者が写真を撮ったプロセスを、饒舌に物語っている。

 本書に収められた写真は、不思議なほどに、30年という歳月を感じさせない。それらはどれも、古いと言えば古いようでもあり、新しいと言えば新しいようでもあるのだ。あたかも、今日、現代性という枠組みそのものが、従来的なものでもあるという逆説を体現しているかのように。こうした意味で、本書は、森山の珠玉の小品集であると同時に、現代写真のエッセンスであるとも捉えることができるだろう。

 最小限の情報が饒舌に、深い沈黙を求め、30年という歳月の逆説が、重力を生み出す。それゆえ、現代写真のエッセンスでもある、森山の写真の魅力は圧倒的で、他を寄せつけない強度があることは、文字通り「言うまでもない」。では、〈アレ・ブレ・ボケ〉という技法は、従来的なものを否定するものだったのか、あるいはそもそも、この深い沈黙と重力を先取りしたものだったのだろうか。そんなことを問うことに、もはや、さして意味はないにせよ、次のような言葉が訳もなく浮かび上がってくるのはどうしたことか。「人類はあいもかわらずプラトンの洞窟でぐずぐずしており、昔ながらの習慣で、ひたすら真理の幻影を楽しんでいる」(スーザン・ソンタグ『写真論』)。