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[写真というメディアから導き出された創造性:吉野英理香『猿人全快』紹介/日本カメラ1999年8月号:171]


吉野英里香 猿人全快―It’s a new day モールユニットNo7 (Mole unit-Photographic magazine- (No7)) (Mole unit-Photographic magazine- (No7))  吉野英里香の『猿人全快』は、徹頭徹尾、肯定的な写真集である。なぜなら本書は、フォルマリズムに貫かれているからだ。

 その理由を、もっともわかりやすい言い方で述べてみよう。

 本書を真に価値あるものにしているのは、今日では伝統的スタイルのひとつとも言えるモノクロームの粗粒子によって、人間の波に入り込み瞬間を捉えているということではないし、そうした営みをたんたんと反復しているからでもない。あるいは、そこでの写真が、制度や原理を受けつけないほど粗野であるからではないし、粗野であるがゆえに、客観性を生々しく露呈しているからでもない。そしてまた、いっさいの言葉を退け、全頁写真のみで構成されているという、エディトリアル・ワークの成果ではないし、そこから逆に饒舌に生みだされるであろう、幾多の写真的言説の効果でもない。

 さて、今ここでは、本書の位置づけを、〈〜ない〉という否定形で語ってみた。なぜこれが、わかりやすい言い方なのかと言えば、それが、コンポラ的な流儀だからである。

 1960年代後半から今日に至るまで、日本の写真表現を彩っているのは、コンポラ的言説である。コンポラ的言説とは何か。ひとことで言うなら、自らを世界と等価に置く身振りによって、逆説的に世界を見渡しうる超越的なまなざしを作り出す、非表現的表現論である。その特徴は、超越性によって、今ここという無時間的空間を仮構するとともに、非表現的、つまり表現的なことを否定し続ける振る舞いによって、無条件に美化された表現者を生み出すことにある。

 しかしながら、こういった表現者であることは、根本的には不可能である。なぜなら、コンポラ的言説を徹底しようとするなら、ただちにその否定性が自らを否定してしまうからだ。今ここというのは、どんな瞬間も今ここであったことがあるから、すべての時間が今ここであるとするような、典型的な詭弁であり、自らを保持するためのいわば方便にすぎない。ゆえに、こういう形容は本意ではないものの、コンポラ的言説に倣うなら、すべてのコンポラなるものは、コンポラくずれである、と言うこともできるだろう。

 精確に言い直そう。本書を真に価値あるものにしているのは、ここでの写真が、そういったコンポラ的言説のいっさいと、切断されているからである。ここに刻まれているのは、明確に、写真というメディアから導き出された創造性であり、ある種の言語である。それは粗野でもなければ、生々しくもない。繰り返し書かれた文字のような単調さこそが、その創造性の証である。ここで創造された言語は、言語対写真、制度対精神といったコンポラ的対比の妥当性そのものを拒絶せずにおかないだろう、すべてのフォルマリズムがそうであるように。

 喜ばしいことに、本書には、コンポラ的言説の典型的技法である、日付もなければ場所もなく、それゆえ、あのいまわしい記憶もない。漢字四文字のタイトルは、都市や風景とも無縁の方位を示している。ところで、あらゆるフォルマリズムは、神秘に結びついている。吉野の『猿人全快』という神秘のアナグラムに刻まれた文字は、いかなる表現論へと展開されていくのだろうか。

 それが読み解かれるとき、本書の価値は真に作者のものとなることだろう。