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[V・フルッサーが示す写真という概念の検討、写真論の邦訳が新刊に:『写真の哲学のために』紹介/アサヒカメラ1999年6月号:115]


写真の哲学のために―テクノロジーとヴィジュアルカルチャー  『写真の哲学のために』と題された本書を読んでまず驚くのは、本書が本当に、写真の哲学のために記された、哲学的な本であるということである。そんなことは当然では、と思われるかもしれないが、そうではない。哲学的なキーワードと写真をつなげたタイトルの本は、これまでにも多数出版されているが、じっさいに内容が哲学的であることはまれなのだ。

 「この論文の意図はあるテーゼを弁護するということにあるのではなく、哲学的な精神で『写真』というテーマに関する議論を促そうということにある」と、巻頭に述べられているように、本書では、既成概念に惑わされずに、写真というメディアにまつわる言葉が、一つ一つていねいに規定され、そして緊密に結びつけられている。

 そうした展開の中から導き出される写真の定義は、次のようなものである。「写真は、偶然に依拠するゲームの進行のなかで、プログラムされた装置によって自動的に、かつ必然的なしかたで作り出され、流通する、魔術的な事態の画像であり、その記号は、蓋然性の度合いをもつがゆえに、受け手に情報を与える」。しかしながら、著者はむろん、この定義を教条的に提起しているわけではない。それは、開かれた議論のための踏み台となるべく提示された、仮説としての定義なのである。

 ゆえに本書は、開かれた、といっても、誰にでも開かれているわけではないだろう。そうした仮説を追い、自ら丹念に検証していこうとする読者には、刺激的なテキストだろうが、逆に、口当たりのいい写真のキーワードを求める読者には、むやみに難解なテキストに思えるかもしれない。

 だが、こうして読者をあらかじめ選ぶようなテキストであることこそが、わかりやすく、やさしいが、じつのところ何も言っていないに等しい言葉ばかりが流布している、この90年代の終わりに本書が翻訳されたことの真価でもあるに違いない。