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[戦後日本写真史第1回/nikkor club #165 1998 summer:86-89]


終戦・太陽・自己

 1945年8月15日。この終戦の日を写真はどのようにむかえたのでしょうか。たとえば、この日たいへん印象的な写真を撮った濱谷浩は、自らがむかえた終戦を、つぎのように語っています。
 「戦争が終わって、私が最初に撮影したのは太陽だった」。
 「敗戦の知らせを聞き終わるとすぐ、寺の裏二階に戻り、カメラを持って本堂前に走ると、快晴の空にギラギラ光る太陽に向かって、シャッターをきった。その日の午後おそく裏二階で、自分自身の姿も撮影した。その時、どういう意味で太陽を撮り、自分自身を写したのか判然としない。その頃の私の考えでは、意味のない写真は意味がない、ということで、何か意味ありげな写真行動をつづけてきていた。記録のため、民俗学のため、報道のため、国家宣伝のため、ため、ため、ため。その中の多くが生活のためであったことも間違いない。だが、芸術のためと考えたことはなかった。そうだとすると、その時の写真撮影はどういうことだったのか」。
 「その時、どういう意味で太陽を撮り、自分自身を写したのか判然としないと書いたのだが、敗戦の日、『太陽があった』『生きていた』という実感の証として写真を撮ったような気がする。何のためでもなく、だれのためでもなく、シャッターをきったような気がする。そういうことも写真のありようの一つかもしれない」。

戦後・日本・写真史

 真っ暗な画面のなかに、白く輝く太陽。これが、終戦の日の太陽の写真だと聞けば、これほど象徴的な写真はありません。しかし、これが何の写真かを知らなければ、これほど意味のわからない写真もないでしょう。
 いささかこじつけめいていますが、戦後日本写真史という言葉にも、同じような意味のゆらぎがあるように思えてなりません。つまり、戦後日本写真史という言葉そのものは、とても象徴的で、それなりのイメージを呼び起こしてくれるのですが、いざそれについて考えようとすると、とたんに、ふだんあまり考えることのなかった、いくつかの疑問がふつふつと浮び上ってくるのです。
 それは、写真表現において、戦後という区切りはいったいどういう意味をもつのか、日本という枠組みは実際どのようなものなのか、そして、この疑問がいちばん大きいのですが、写真史とは実のところ何を指しているのだろうか、といった疑問です。これらの疑問は、あまりに当り前すぎて、ふだんそれなりのイメージで理解しているだけに、かえって問うことがとても難しいものに思われます。
 こうした疑問につきあたったときに、いつも思い出す文章があります。それは、写真史の本であるにもかかわらず、「概説的な写真の歴史を書くにあたってはさまざまな困難がつきまとう」という一文からはじまる、イアン・ジェフリーというイギリスの美術史家が八十年代のはじめに書いた、『写真の歴史』という本の序章です。ここでの疑問のある部分を、的確に言い当てているように思われますので、その一節を引用してみたいと思います。
 「写真史の概説を書くにあたって、さらに困難な状況がある。写真の評価をどこに置くかという問題である。写真史家や批評家は普通それを一枚一枚の写真と考えている。そうすると写真史はまるで絵画史のミニチュアのようになってしまう。しかしあらゆる写真家がこうした写真史家や批評家のように自分の写真をみなしていたというわけではないのだ。写真を文章と並置するために撮ることもあったし、連続写真や組写真として撮ることもあり、こうした場合、多くは写真編集者が写真の配置や割り付けを担当していた。つまり“写真作品”というのは、一枚の写真であることもあれば、一冊の写真集ないしはフォト・エッセイであってもよかった」。
 「また写真は新しい体裁のもと新たな文脈のなかで頻繁に再版され、複製されるのであってみれば、その歴史の始まりまでさかのぼるのはいよいよ困難になるだろう。ずっと陽の当らぬ場所にあった写真が良質かつ鮮明なプリントで紹介されたり、評価されていなかった写真家の写真が、巧みな編集によって刺激的な外観を新たに与えられたりもするのである」。

写真の評価

 ジェフリーがこの本を書いてから、20年近く経とうとしていますが、彼が言っている困難は、解消された訳ではまったくなく、今日の日本写真の状況にも、いよいよあてはまるようになってきているのではないでしょうか。というのも、写真誕生150年を迎えた80年代の終りから今日にかけて、写真表現が、ギャラリーや美術館、雑誌や写真集など、さまざまな場面で注目されるようになってきたからです。もちろん、こうした現象はたいへん喜ばしいことに違いありません。しかし、その一方で、さまざまな視点による、さまざまな解釈が断片的になされ、写真表現の枠組みが見えにくくなってきているのも事実でしょう。
 細かく言えばこういうことです。今日では、歴史的な写真の再評価と同時代の写真の評価が、つねに並行してなされています。それだけでなく、19世紀の古い写真と90年代の新しい写真が、何らかのテーマのもとに肩を並べていること、またあるいは、同じ写真が、まったく違ったテーマのもとに登場しているといったことも、珍しくありません。つまり現代では、「写真の評価」が、ひんぱんに揺れ動いているのです。
 また、その「写真の評価」を考えるときに、何を基準にするのかということすら、難しい問題です。多くの場合、写真史の主人公はいっけん写真家や写真作品であるようにみえます。しかし、写真家の活動や展開のみによって、ある時代の写真を語りつくせるかというと、それもはなはだ疑問でしょう。仮にそれが可能だとしても、1950年代の写真家と90年代の写真家とでは、同じ写真家といっても、かなり違った在りようをしていることを考慮に入れなければなりません。では、写真作品が基準になるかといえば、必ずしもそうではないでしょう。ジェフリーが述べているように、写真表現ならではの事情として、何をもって一つの作品とするかということ自体が、にわかに決め難いものなのです。

文脈と独自性

 少々、疑問を広げすぎたようです。こうした問いについては、またしかるべきときに考えるとして、はじめの問いにもどりましょう。こういった事情を踏まえて考えるとき、戦後日本写真史を捉える試みというのは、けっきょくのところ、無理やりそれに明確なイメージを与えるということではなく、ふだんそれなりに理解しているつもりになっている、戦後日本写真史というイメージそのものに、できるだけクリアーな輪郭を与えていくことなのではないか、という気がします。
 具体的にはどういうことか。端的に言うなら、それは、ある写真家、ある写真作品といったことのみにこだわるのではなく、それらが相互に影響し合って形作られている文脈を、もっとも重視して戦後日本写真史を捉えてみる、ということにほかならないでしょう。そして、ある文脈について語るときには、それがどのような視点に基づくものなのかを、同時に、できるだけ明らかにするということにつきるでしょう。
 こうした観点で、写真史を見ていこうとすると、どうしても抜け落ちてしまう部分が出てきてしまうことは否めません。しかし、こうした観点に限らず、どのような歴史であれ、何らかの視点や限定がつきものであり、それが記述されたものである限り、すべてを語ることは不可能です。また、写真表現がさまざまな場面で注目されるようになってきた、日本写真の今日の状況の成果として、概説的な日本写真史の優れた試みや、いくつかの年表の作成などもすでになされていますので、そうしたものとの過度の視点の重複を避けるという意味でも、ここでは、こうした観点から戦後日本写真史を見ていきたいと思います。  
それでは、こうして、文脈としての戦後日本写真史をとらえようとするとき、もっとも重要になってくるのは、どのようなことでしょうか。それは、写真表現の独自性というものであるように思われます。写真表現の独自性、と言うと、何かたいへん堅苦しい響きがありますが、ここでは、写真って何だろうという、写真表現に関わる誰しも一度は考えたことのあるだろう、漠然とした問いが作り出すイメージくらいの、広い意味で捉えて頂ければと思います。

戦後写真前史

 いささか前口上が長くなりすぎたようです。
 では、戦前において、写真の独自性とはどのように捉えられていたのでしょうか。そのイメージの典型のひとつを、ドイツ、フランスなどの新傾向の写真の影響を受けた、「新興写真」の流れに見ることができるでしょう。なかでも、野島康三、中山岩太、木村伊兵衛を同人として1932年に創刊された、月刊写真雑誌『光画』では、それを代表するような多くの仕事がなされています。同人の作品をはじめ、東京の堀野正雄、佐久間兵衛、青木春雄、飯田幸次郎、関西の芦屋カメラクラブのハナヤ勘兵衛、紅谷吉之助といった、63人の写真家による、193点の作品が掲載された同誌(全18冊)には、写真とは何か、またどうあるべきかという問いのなかで、新たな写真表現を探る「新興写真」の気運が、よくあらわれていると言ってよいでしょう。
 『光画』創刊号に掲載された、第二号から同人に加わることになる伊奈信男による文章「写真に帰れ」は、まさにそうした気運を体現するかのような重要な文章に思われますので、その一部を紹介してみましょう。
 「『芸術写真』と絶縁せよ。既成『芸術』のあらゆる概念を破棄せよ。偶像を破壊し去れ!そして写真独自の『機械性』を鋭く認識せよ!新しい芸術としての写真の美学堯槇写真芸術学は、この二つの前提の上に樹立されなければならない」。そして、それまでの絵画を模した芸術写真を否定しながら、写真の独自性を強調する伊奈は、さらに、「写真とは何であるか?芸術としての写真の本質と目的は何であるか?」、と問いかけます。
 「写真に帰れ」は、三つに分類された、機械性の認識から生れた海外の新しい写真の紹介を基調として書かれているのですが、しかし、そのいずれに対しても伊奈は、若干懐疑的な態度をとっています。「『事象性の正確なる把握と描写』堯槇それは、それ自身に於て正しい。しかし、それは同一なる形式の反復によつて、早くもマンネリズムに堕する危険性を持つている」。「『生活の記録、人生の報告』堯槇これもまた正しい。しかしこの場合に於ては、内容の瑣末性に煩わされて、何等の感動を与へ得ないものとなる」。「『光線による造形』堯槇これこそ、写真芸術の全領域を遺憾なく蔽う定義として、或る意味に於ては、最も正しいものであらう。しかし、あまりに稀薄なる内容を持つと同時に、あまりに、形式主義的規定である」。
 こうして伊奈は、はじめの問いに対して、次のような結論を導きだします。
 「写真芸術は、たとえその歴史は若く、伝統は短いとはいえ、決して他の芸術部門に隷属すべきではない。反対に、現代の如き大工業的、技術的様相を持つ社会に於て、写真こそは、最もこの社会生活と自然とを記録し、報導し、解釈し、批判するに適した芸術である。しかし『カメラを持つ人』は社会的人間であることを忘れてはならない」。  「吾々が写真芸術によつて『現代』に最高の表現を与えるためには『カメラを持つ人』は、何よりもまず最も高き意味の社会的人間たらねばならぬのである」。
 このような伊奈の理念は、「新興写真」に限らず、その後の写真の流れにも大きな影響を与えたように思われます。ドイツ流のフォト・ジャーナリズムを身につけ帰国した、名取洋之助が、『光画』同人の木村、伊奈と接触し設立した「日本工房(第一次)」、日本工房分裂後、名取以外の同人で設立された「中央工房」、名取が再建し、堀野、渡辺義雄、土門拳、藤本四八などが関わった「日本工房(第二次)」などによる仕事、あるいは、土門、藤本、濱谷、田村茂、加藤恭平、杉山吉良ら若手写真家たちによって設立された「青年報道写真研究会」の動向などの背景には、写真の独自性の探求とその社会性という伊奈の理念を、直接的ないしは間接的に伺うことができるのではないでしょうか。
 しかし、戦争が泥沼のように進行していくにしたがって、軍に不利な情報や写真が徹底的に規制されていったうえに、カメラや写真材料の輸入も厳しく制限されるようになり、写真家の役割が戦時宣伝に限られていくなかで、このような理念もやがて引き裂かれていかざるをえなくなっていきます。
 こういった戦前の写真の流れに、はじめに引いた濱谷の発言を照し合せてみると、おぼろげながら、終戦をむかえた写真表現の姿が見えてくるような気がします。それは、目的意識としての明確な社会性を軸に形作られた写真の新たな独自性の理念から、社会性なるものの明確さが失われ、目的意識が抜け落ち、答えが見えない、空洞のような写真の独自性、あるいは、世界(太陽)と自己(自分自身の姿)の間に、かろうじて吊り支えられた、「実感の証として写真」です。
 戦後の日本写真は、こうした空虚さのなかから、かすかな実感を頼りに、新たなスタートを切り、そして、再び写真の独自性を模索していくことを、何らかの形で宿命づけられていたように思われるのです。

(文中敬称略)