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[戦後日本写真史第2回/nikkor club #166 1998 autumn:82-85]


敗戦後の日本写真

 前回の終りでは、終戦をむかえた写真表現の空虚な姿を、戦前における、目的意識としての明確な社会性を軸に形作られた、写真の新たな独自性の理念から、社会性なるものの明確さが失われ、目的意識が抜け落ち、答えが見えない、空洞のような写真の独自性、あるいは、世界と自己の間にかろうじて吊り支えられた、「実感の証として写真」というふうに、素描してみました。
 こうした姿は、戦後の日本写真を具体的に捉えようとする際には、いささか抽象的すぎる、あまりに漠然としたイメージに感じられるかもしれません。しかし、この漠然としたイメージは、素描の仕方が抽象的だからという訳だけではなく、敗戦直後の写真表現をより具体的に捉えようとするときにも、避け難くあらわれてくるものであるようにも思われます。それは、なぜなのでしょうか。このことを考えてみるために、戦後しばらく時を経てから、敗戦当時の様子を振り返った文章を、引いてみたいと思います。
 1977年に刊行された、『日本現代写真史1945−1970』で、「戦後写真史展望」という文章を記している渡辺勉は、敗戦後の日本写真について、次のように述べています。
 「それ〔敗戦〕によって写真界にも、新しい時代が到来することになるのだが、その出発にあたり、写真界全体としての戦争責任の自己批判がじゅうぶんでなかったといわなければならない。そのことはそのように指摘する筆者をも加えて、やはりきびしく反省しなければならない歴史的事実なのである」。
 「むろん個人的には、それぞれの立場において、戦争責任を自らに問うことはあったに相違ない。たとえば、ほとんど直接的には写真を通して戦争に進んで協力したことのない渡辺義雄は『自分のことですから積極的ではないが、推されて自然と軍や情報局と関係の深い役回りになったわけでしたから。それで終戦後母校(東京写真専門学校)で人がない折でしたがそこの教壇も断り、社会的に影響のある仕事(発表)は静観する気持ちが強かったのです』(アサヒカメラ1950年5月号)と述べている。また木村伊兵衛も、しばしば筆者に、戦争の再起が意外におくれたのは、戦争責任をどう処理したものか迷いつづけていたことに起因すると語っていた」。
 「しかし、いずれにしても個人的な、ひそやかな反省はともかく、写真界全体として、昨日まで軍国主義に欺瞞され、それに順応しながら沈黙を強いられて、偽りの歴史の記録者となっていた汚辱の足跡を究明し、自己批判を徹底させることを怠った責任は、筆者をも含めて大きいといわなければならない」。

静観と迷い

 戦前には、たとえば「新興写真」という形の、写真の新たな独自性の理念がありました。それは、目的意識としての明確な社会性を軸に形作られたものです。しかし、敗戦という局面を迎えることにより、その社会性それ自体が大きく否定されることになります。戦後の日本写真を捉えようとするときに、避け難くあらわれてくる漠然としたイメージは、そうした局面のなかで、一方では、過去を大きく否定しつつも、他方では、過去から連続する現在を引き受けなければならなかった、個々の写真家の、葛藤そのもののあらわれと言えるかもしれません。
 そうした葛藤は、渡辺が指摘するように、写真家の態度としては、「静観」や「迷い」としてのみあらわれることが多いように思われますので、なかなか具体的な形で表現されることがありません。それゆえ、日本の写真史において、戦中から戦後への転換を、個々の写真家がどのように受け入れていったのかは、語られることも少ないようです。この点に、めずらしく正面から言及している、1995年に刊行された、『木村伊兵衛と土門拳』のなかで、三島靖はこう言っています。
 「むろん、彼らは積極的な戦争協力者ではなかっただろう、と彼らを知る人たちは語る。その当時、写真家として生きていくには体制に協力するしかなかったのだと」。
 「たしかに、当時の状況の切迫を知らずして、写真家の戦争責任が云々と、ひとことで断罪してしまうことはできない。ただ、木村や土門が職能者であったということは、戦時の状況から中立だったという理由にはならないし、むしろそのことの方がはるかに彼らの責任を大きくしていたというべきではないだろうか。優秀な『職能集団』であるがゆえに(そもそも、木村と土門をこの時期に限って『職人』と呼ぶのも奇妙だが)、なかなか手に入らなくなっていた資材を手に入れ、同時代の先端をゆく写真媒体の制作ができたのである。その時代が終われば再び評価されることがないであろう写真を撮り続けることに、無知からであろうと故意にであろうと、無自覚であったこと堯槇すぐれた表現媒体をもち、そこでぬきんでた表現力を駆使できる者は、それを受けとめる側に何らかの影響を与えずにはおかない。その影響が場合によっては歴史を左右することもあるからこそ、『職能』をもつ者が能力を発揮するにあたってあらかじめ負う責任は、結果としてのそれ以前に重いのだ」。
 「だが木村も土門も、戦争中にカメラを捨てることはできなかった。生活の問題ももちろんあっただろうが、何よりも、木村は写真が好きだったのだし、土門は写真を制そうとしはじめたところだった」。
 「この不運は、戦後の彼らの姿勢に大きな影を落としている。写真を撮る以前に写真の社会的な意義、しかも社会正義のための奉仕といった目的を強く求めるようになったのも、やはり戦時中の身の処しかたに原因があったことは間違いないだろう。彼らが写真に社会的な意味づけを行なったことで、正義と真実を伝えるものとして戦後の写真は地位を飛躍的に高めた。ただ、戦前・戦中と基本的に変わらない撮影の方法で戦後も撮っていれば、限界はたちまちやってくる」。

リアリズム写真運動

 戦後の日本写真史において、ひとつの出発点として必ず取り上げられるのは、土門拳による、いわゆるリアリズム写真運動です。1950年にアルス社の『カメラ』誌の月例審査員になった土門は、応募作品の批評を通じて、「カメラとモチーフの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」といったスローガンような響きをもった言葉を、アマチュアに熱く語りかけるようになります。たとえば、木村伊兵衛もまた、同誌において、1951年後半に土門と連載対談を行ったり、1952年は土門とともに、1953年は土門と交互に選者を努め、リアリズムについて何らかの発言をしていたりはするものの、やはり、リアリズム写真をひとつの運動に至るまでリードしていったのは、いわばカリスマとしての土門だと言っていいでしょう。
 土門の熱気によって、リアリズム写真運動は、金井清一、目島計一、杵島隆、臼井薫、田中一郎、川田喜久治、福島菊次郎、東松照明、深瀬昌久といった、のちに日本の写真表現を担っていくようになる人物を含んだ、当時のアマチュアたちを強く引き付けただけでなく、同時代の写真表現にも大きな影響を与え、また、多くの論議を生むようになっていきます。
 しかし、月例という独特の場、土門拳とアマチュアという独特の関係のなかで育まれたリアリズム写真は、「カメラとモチーフの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」といった言葉の明快さとは逆に、はっきりとした内実の輪郭が見えにくい運動でもありました。リアリズム写真は、『カメラ』誌の対抗誌であった、『アサヒカメラ』誌に拠る論者などから、テーマが固定化した「乞食写真」といった批判を浴びるようにもなります。「『リアリズム』の清算」(1980年)という文章で、長谷川明は、そうした論争を振り返り、次のように述べています。
 「しかし、この論争の奇妙さは、誰もリアリズムそのものには反対していないことである。『アサヒカメラ』側の主要論客である浦松佐美太郎は『写真のリアリズムについて』(1952年11月号)の中で、写真は絵と異なりメカニズムが正確な描写を行ってしまう宿命を背負っているため、リアリズムは表現技法ではなく直接思想の問題として関わってくると述べている。この指摘は土門の論旨とも矛盾するとは思えないのだが、土門は『カメラのメカニズムは本来リアリズムであるという俗説ぐらい馬鹿げたものはない』(『カメラ』1953年10月号)と猛反発している。しかし、そのあとで『リアリズムはカメラという名の四角く冷たい機械の中にあるのではなくて、写す人間そのものの世界観と表現方法の中にひそんでいるのである』と同じことを言っているのだからいささか珍妙である」。
 ここで注目しておきたいのは、土門と浦松の矛盾や同一性そのものではなく、長谷川明が珍妙と指摘しているような、対立の噛み合わなさです。『アサヒカメラ』誌1952年12月号には、伊奈信男・渡辺義雄・浦松佐美太郎・土門拳・長谷川如是閑というメンバーで、「写真のリアリズムについて」という座談会が収録されていますが、最後に意見を求められた長谷川如是閑が、「あまりテーマが多くてよくわからないが……」、ともらしているように、全体を彩る調子は、やはり論争と言うよりも、あらゆる点において論旨がちぐはぐとした、こうした噛み合わなさを象徴するようなものになっています。
 しかし、にもかかわらず、土門拳によるリアリズム写真運動は、直接的にせよ間接的にせよ、当時も、その後の写真表現にも大きな影響を与えました。だからこそ、こうした噛み合わなさに、注目しておきたいのです。

写真の可能性

 土門と言えば、『風貌』や『室生寺』、リアリズム写真の成果とも言われる『ヒロシマ』や『築豊のこどもたち』、あるいはライフワークとなった『古寺巡礼』といった、日本写真史に残る名作でよく知られていますが、そうしたイメージからすると、やや意外な作品を、戦後の初期に発表しています。『クローズアップ』(1948年5月号)に掲載された、『肉体に関する八章』と、『フォトアート』誌(1950年1月号)に掲載された、『皮膚に関する八章』という、いわばシュルレアリスム風にも見えるような、実験的な雰囲気の作品です。この、『皮膚に関する八章』の解説文で、土門はいくつか興味深いことを言っています。
 「今度の僕の『皮膚に関する八章』はもちろん非常に幼稚で成功したものではありませんが、強いて言えば、新即物主義の人間主義的解放を志向したものと申せましょうか。これも“写真の可能性”をさぐる僕自身の努力の一つで、成功不成功、上手下手は敢て意とするところではありません」。
 「かのピカソがうまいことを言っております。人間は小鳥の声をきく時は、ただききほれるだけで、何をさえづっているのかなどと“理解”しようとしてはいない。それなのに絵を見るときに限って、一生懸命根堀り葉堀り何が描いてあるのかと“理解”しようとする。絵は小鳥の声を聞くように、ただ見ればよいのであると。写真もまったく同じであります」。
 写真作品の意外さもさることながら、この発言も、「カメラとモチーフの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」といった言葉における、リアリズム写真の土門と比べると、いささか意外なものに思えます。なにしろ、“写真の可能性”をさぐりつつ、写真を“理解”しようとせず、ただ見ればよい、と言うのですから。ここだけを捉えるなら、今日の写真家の発言とも聞えるような言葉ではないでしょうか。また、こうした姿勢は、前回取り上げた濱谷浩の、「実感の証として写真」と呼応するものでもあるようにも思われます。
 このような姿勢の土門が、なぜたちまちリアリズム写真運動の先導者となっていくのでしょうか。先の、「写真のリアリズムについて」という座談会で、土門は次のように発言しています。
 「戦前にも、敗戦直後にもリアリズムという意識は全然なかったんですね。戦争が終り再びカメラを持つようになって、いろいろなことをやりました。ご存知かもしれないが、肉体に関するアフェクシヨン的なものを、非常にリアリスティックな手法で写してみるという、現実と非現実の混淆というものを狙った仕事もやってみたけど、そういうものはつくりものとして直ぐ頭打ちになるんです。そうした中で、最もリアリスティックな表現の方に重点を置いて私なりに考えてきたわけで、それもここ2、3年のことです」。
 戦後の初期にみられる、こうした土門のゆらぎは、はじめに述べた、一方では、過去を大きく否定しつつも、他方では、過去から連続する現在を引き受けなければならなかったことの、葛藤のひとつのあらわれと言えるかもしれません。戦後、土門は“写真の可能性”を探りはじめます。それは、戦前、戦中とは違った、写真の独自性にほかならないでしょう。しかし、かつての社会性それ自体を否定することが余儀なくされている以上、どのような写真表現の試みも「直ぐ頭打ちに」ならざるをえません。逆に言うならば、戦後の写真の独自性は、過去の否定と、過去から連続する現在という、矛盾する条件を満たすなかに探られないかぎり、新たな理念としては不充分なものにとどまらざるをえないのです。

新たな写真表現の空間

 このようなことを踏まえて考えてみると、土門のリアリズム写真運動は、過去の否定と、過去から連続する現在という、矛盾する条件を、辛うじて満たすものであったことが、わかってくるように思われます。「乞食写真」とも批判された、リアリズム写真は、ごく単純化して言えば、一方で悲惨な現状を描きつつ、他方でそれを否定した理想的な未来を暗黙に浮び上らせるからです。そして、だからこそ、リアリズム写真運動は、まず明確な理念があって組織されるのではなく、土門拳とアマチュア、つまり戦後的な意味での大衆との関係のなかで、いわば手探りで育まれなければならなかったのでしょう。
 内実の輪郭が見えにくいにもかかわらず、このように新たな理念を打ち出すに至った、リアリズム写真運動が、写真表現に大きな影響を与るようになったのは、当然のことかもしれません。端的に言えば、「静観」や「迷い」といった態度を打破しうる、新たな写真表現の空間を形作りえたのですから。また、リアリズム写真をめぐる論争の、噛み合わなさも、こうしたことに由来するものであるように思われます。なぜなら、それが噛み合うか否かにかかわらず、ここで重要なのは、「静観」や「迷い」といった態度を打破しうる、新たな目的意識としての理念であり、結論を出すことよりも、それをめぐることにこそ意義が見出されうるからです。
 戦後、ようやくこうして、「実感の証として写真」は、リアリズム写真運動、そしてそれへの批判も含めた、新たな写真表現の空間へと転換されていくことになっていったのではないでしょうか。

(文中敬称略)