texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[塗り替えられた、世界・写真・自己の関係:鈴木清『デュラスの領土』/日本カメラ1998年5月号:133]


 本書『デュラスの領土』は、1972年の『流れの歌』から自費での写真集出版を続け、一貫して世界・写真・自己の関係を探ってきた鈴木清の、8冊目の写真集である。このことは、よく知られている彼の簡単なプロフィールでもあるが、本書を捉えるうえで重要なことなので、はじめに書き添えておこう。
 鈴木が、処女作を出版した70年代初頭は、コンテンポラリー・フォトグラフィーというニュー・ウェーヴが、写真表現に訪れた時代である。『流れの歌』を見てもわかるように、日常のなかに世界と自己との関係を見出す、この写真表現の波のなかで、鈴木が創作活動をはじめたことは、想像に難くない。以来、彼の写真集や写真展などの活動は、そうした文脈のうえに位置づけられてきた、と言っていいだろう。
 かつて、世界と自己との関係の変革の試みと謳われたコンテンポラリーという文脈も、今日では、自己の救済の私的な試みへと変質してはいるものの、だからといってその力が失われた訳ではない。わたしたちは現在、写真表現にまつわるあらゆる場所で、自身がなしえた表現を失念したコンテンポラリー・フォトグラフィーの亡霊と、亡霊からスローガンを借りた新たな担い手による、自由でしなやかな戯れを見ることができる。
 結論を急いで言えば、なによりもまず『デュラスの領土』を規定しているのは、70年代から今日にいたるまでの写真表現の精神性を彩るそのような文脈との、鮮かな断絶にほかならない。タイトルにも示されているように、本書はマルグリット・デュラスをめぐっての、MEKONG DELTA・CALCUTTA DESERT・SAVANNAKET BLUEという鈴木の旅を、3部作として編んだ書物である。しかし、そのような解説的なことよりも重要なのは、本書がおそらくは、けっして撮られることのなかった写真という一点をめぐって構成されていることである。けっして撮られることのなかった、そして、けっして撮ることのできない写真…。それは、写真論的にわかりやすくひとことで言うなら、《それは=かつて=あった》といったディスクールと、一切無縁な写真である。
 そのような写真表現が可能なのか? もちろん不可能である。しかし同時に、その不可能を深く自己に刻むことなしに、人はどんなささいなことも表現できないだけでなく、存在することすらできない。それゆえ、鈴木はデュラスという存在に応え、けっして撮られることのなかった写真と自己との関係を浮び上らせる。こうした関係の探求において、写真はもはや鏡や窓ではなく、ましてや、私的な救済を自己の影に見出そうとする方便でもあるまい。けっして撮られることのなかった写真…、誤解を恐れず言えば、それは光であり、真理である。この意味で本書は、けっして撮ることのできない写真…、真理に向けて作られ、署名されている。したがって、本書に収められた写真の数々は、光の鉛筆で類似的に描かれたイマージュではない。それは、光と自己の関係のいわば暴力的な痕跡、コンテンポラリーという文脈に萌芽しつつも抹消された、写真のエクリチュールにほかなるまい。
 こうして、世界・写真・自己の関係を明確に塗り替えている『デュラスの領土』は、これまでの鈴木のどの写真集にもまして、倫理的な書物である。そしてこの一冊は、これまでの鈴木の写真集や写真展などの活動をも、作家の一連の展開といった、コンテンポラリーという文脈におけるディスクールから解き放ち、宿命的な星座へとそれらを位置づけ直さずにおかないだろう。