このことは、私たちが写真表現について語るときに、しばしば否定形によってそれを語ることに、どこかで関連しているように思われる。
つまり、写真表現についての言説は、必ずどこかで具体的かつ個別的な写真を否定するような位相を備えているのではないだろうか。
言い換えれば、そのような位相を欠いては、写真が写真であるためには写真でなければならないというような、写真の存在論的次元は出現しえないだろう。
この存在論的次元は、ふだんは否定形による差異化、つまり差異と同一性からなる認識論的次元としてのみ意識されているものだろう。
しかし、この認識論的次元が、存在論的次元に深く根差しているとすれば、どうだろうか。
認識論的次元において、端的に言えば、写真は他のものとは違っているがゆえに写真であり、写真は何よりもまず写真に似ている。
だが、存在論的次元においては、写真とは他のものとの関係以前に写真である。それは写真であるがゆえに写真なのだ。
こうして考えてみるとき、認識論的次元を説き明かしているようにみえる、いわゆる概念的な写真表現は、別の位相を垣間みせるだろう。
それは、写真についての写真という位相以前の、例えば撮ることを撮るといった不可能性に属した位相である。
また、この位相は、概念的な写真表現においては、ある絶対的な仮説としての存在論的な次元として照し出されるものだろう。
ところで、撮ることを撮ること、行為することを行為すること、それは不可能性に属しながらも、なぜ「可能」なのだろうか。
…『「僕は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つかと君は言うだろう。だがこの生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」』…『「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」』…
いずれにせよ、写真によってなんらかのことがらが表象される、あるいは、写真がなんらかのことがらを表象しうる、そういった仮説が、かくも素朴に信じられているのはなぜなのだろうか。
もろもろのディスクールが、仮に、逆に、二つの写真のあいだから展開しているとするなら、行為はけっして偶発的でもなければ、特権的な位置をしめることもないだろう。その時、写真(なるもの)は表象でもなければ、そして誤解をおそれず言えば、ましてや表現でもない、おそらく、もしこういってよければ、一種の徴候として浮び上ってくることだろう。
追記
「文学の余白に写真(論)を」の中段の引用は、三島由紀夫『金閣寺』より