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[BOOK REVIEW:新着写真集紹介/nikkor club #161 1997 summer:100-101]


 「今日の映像文化は高度な裏読みを必要とする。いま見ている映像は全体の一部にすぎないのかもしれない、いま見ている映像の解説は真実でないかもしれない、さらに、いま見ている映像は、写真が一定の意味を持ちにくくなっていることからして、最初持っていた大きな真実味をもはや失っているかもしれない。…報道機関に十全の信頼をよせることができないのに、毎日いっしょに生活し大いに頼りにしているというのは何とも悩ましい状況で、子供が少しおかしくなった親に育てられているようなおもむきである」。
 現代の映像をめぐる状況が、簡潔かつ適確に述べられているように思われる、このような一文があとがきに記されているのは、ヴィッキ・ゴ−ルドバーグの『パワー オブ フォトグラフィ』(別宮貞徳監訳)です。ゴ−ルドバーグは、女性報道写真家マーガレット・バーク・ホワイトの生涯を描いた既刊『美しき「ライフ」の伝説』などで、綿密な調査をもとにしながらも、平易な書き口で展開することで定評がある、ニューヨーク在住の写真評論家です。日本語で言うと“写真の力”というタイトルの本書には、写真の誕生から今日に至るまで、写真が社会と関わりながら、いかに力を育みそして変容してきたかが、さまざまな資料を駆使しつつ、とても説得力がある形で書かれています。
 この本の独自性は、引用した一文のような現状の中で、あえて実証的に写真の力が語られていることでしょう。80年代から90年代にかけて、写真の力が余りに抽象的に語られてきたからこそ、かえって今日、本書のような視座が新鮮に見えるのです。多様な写真表現が展開される中で、改めて写真の座標軸を確認するという意味で、上下巻のボリュームがありながらも、このような題材を抵抗なく読ませてしまう本書は、とても有意義な本だと言えるでしょう。
 今回、このような話をはじめにしたのも、このところ書店の写真集のコーナーを見ていると、写真表現がほんとうに多様な姿で発信されていること、言い換えれば、これといってはっきりした流行が見られないまま、多種多様な写真集が出されている複雑さが実感されるからです。例えば、石黒敬章と滝錬太郎によって編まれた『明治期の海水着美人』を見てみましょう。本書はタイトルの通り、明治期に撮影された海水着美人の絵葉書を6年がかりで集め編んだ労作です。レトロかつモダンな雰囲気が濃密な、本書に収められた写真は、むろん、はるか昔に撮られたものばかりです。しかし、こうしたイメージがとても面白く感じられるという関心は、まさに今日ならではのことと考えられるでしょう。つまり本書の在りようは、たんに珍しい古い写真が編まれているというだけではなく、今日の私たちがそれを興味深く感じるという、映像文化のいささか逆説的な現状をも示しているのではないでしょうか。
 またこの逆説は、違ったかたちで、三好和義氏の『楽園の原点おきなわ』にも見ることができるでしょう。本書は、1976年に弱冠17歳でニコンサロンで写真展を開いた三好氏が、70年代に撮った写真をメインに、沖縄での写真を編んだものです。三好氏のデビュー作の再編とも言える本書の写真を見てみると、70年代の写真の潮流を敏感に反映しながら同時に、透明感のある独特の作風がすでに開花しつつあることが感じとれます。しかし、そのように感じるのは、その後の三好氏の活躍を踏まえながら、今日改めて三好氏のかつての写真を見ているからであって、おそらく発表当時の印象はもっと違ったものであっただろうと考えられます。こうした意味で、本書の魅力は、収められた写真そのものにあるのはもちろんのこと、ここに見られる時代と写真の潮流の錯綜した関係でもあるように思われるのです。
 そして、趣はまったく変わりますが、書店では、今を時めくスーパーモデル、シンディ・クロフォードの『ベーシック・フェイス』が、こうした写真集の近くに平積みにされていたりします。シンディ・クロフォードが、メイクアップのノウハウを多くの写真を使って伝授してくれる本書は、これを写真集と呼ぶべきかどうかは別にして、たんに化粧のハウツーものとしてではなく、ヴィジュアルとしても充分に楽めることは確かでしょう。女性を撮ることに興味を持つカメラマンにとっては、直接女性には聞きにくい化粧をめぐることがらを、さまざまな角度から学べる絶好のガイドブックとして捉えることもできると思います。
 また、この『ベーシック・フェイス』とともに、第一線のファッション・エディターである元『ヴォーグ』誌の編集長グレース・ミラベラが、ファッションの世界の虚と実を内側から描いた『ヴォーグで見たヴォーグ』(実川元子訳)や、これは昨年出された本ですが、気鋭のファッション・ジャーナリストのマイケル・グロスが、モデルという職業の変遷とともに、今日スーパーモデルと呼ばれるモデルたちが、どのように誕生したかを辛辣に描いた『トップモデル きれいな女の汚い商売』(吉澤康子訳)などを読むと、ファッションとモデルと写真がいかに深く関連しながら、今日のファッションの世界が切り開かれてきたかが、生き生きと感じられることでしょう。
 時代の最先端を走ってきたファッションという世界が、こうして自らを振り返りはじめたということもまた、映像文化の逆説的で複雑な現状の一端であるのかもしれません。そんな風に考えてみると、はじめに引用したゴ−ルドバーグの一文に続く、次のような言葉が、報道的な映像の分野だけでなく、今日の映像文化全般に当てはまる問題提起に思われてくるのです。「すでに、多くの人は、理性的に考えれば信じないほうがいいと思われる映像を信じる姿勢になっているのかもしれない。いまや無気味に迫ってくる問題はこれである――写真はもはや信頼できる伝達手段ではない、と広く一般の人びとが思いこんだときに、いったい何が信じられることになるのだろうか」。