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[文化に属するテクストとして写真を読むこと:アラン・トラクテンバーグ『アメリカ写真を読む』/日本カメラ1997年2月号:146]


 一九八九年、つまり写真誕生百五十周年に当る年に原著が出された、アラン・トラクテンバーグの『アメリカ写真を読む』の邦訳が出版された。訳者は、既にイアン・ジェフリーの『写真の歴史』を訳出したこともあり、ラテン・アメリカ・スタディーズを専門としている石井康史と、映像史、アメリカ研究を専門とし、周到なリサーチを背景にしながら写真をめぐる繊細かつ独自な論評をたびたび記している生井英考。写真誕生百五十周年をめぐる喧騒の中でも、ひときわ高く評価されていた書物の待望の翻訳が、理想的なかたちで刊行されたといっていいだろう。それ自体でも、アメリカ写真をめぐる状況を知る参考になる生井のあとがきによると、本書は、気軽に眼にできる通史として、発売以来、アメリカの都市の一般書店の棚から淘汰されることなく、多くの読者のかたわらにありつづけているらしい。
 しかしながら、五百頁を越える(原著でも三百頁を越える)ボリュームの本書を、いわゆる写真の通史として、つまり、様々な写真家による多様な写真の展開といったイメージとともに手に取るならば、いささかその人気が解せないところがあるかもしれない。なぜなら、著者自身が序文で述べているように、ここには「フランシス・ベンジャミン・ジョンストン、エドワード・ウェストン、ポール・ストランド、ドロシア・ラングさえ登場しない」からである。それはなぜか。トラクテンバーグは次のようにいっている。
 「独立したのものとしてでも歴史的してでもなく、文化に属するテクストとして写真を読むこと。そのための方法を提起し検証するために、是非はともあれこれらの写真家たちのテクストを切り棄てざるを得なかったのである。写真がなにを見せてくれるか、ないし写真がどう見えるかだけでなく、それ自身の意味を写真がいかに構築しているかという点にこそ、歴史としての写真というものの価値があるからだ」。
 このように語られ、本書のボリュームの中で実践されてもいる著者の明瞭な視座こそが、すなわち、どれだけ多くの事象が取り込まれたかではなく、いかに事象が限定され、いかなる方法によって探究されているかという理念こそが、本書がいわゆる写真の通史と一線を画するとともに、広範な支持を得ている理由でもあるだろう。そしてそれが、一八三九年から一九三八年という限られた時代の中の、さらに限られた写真家を扱ったものでありながら、本書をきわめてアクチュアルかつコンテンポラリーな言説として照し出しているといっていい。
 したがって、本書を読むことは、アメリカ写真について、これまで他の書物からは得ることのできなかった視座と知識を得ることにつながるであろうことはもちろんだが、それと同時に、私たちにある問いを潜在的に投げかけずにおかないだろう。それは、トラクテンバーグが序文の最後で、「写真は過去を表象しつつ、現在が自らを理解し、未来を予測しようとする欲求に仕えるのである。写真の歴史はつまるところこうした政治的なヴィジョンの裡に横たわるものであり、私たちがそのヴィジョンを認識するときの助けとなるものなのである」と語るときの、「ヴィジョン」をいかに捉えるのかという問いである。その問いは、日本の読者である私たちには、端的にいえば『アメリカ写真を読む』を読むとはいかなることかという二重の問いとして浮び上ってくるように思われる。