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[BOOK REVIEW:新着写真集紹介/nikkor club #156 1996 spring:88-89]


 このところ、書店の写真集のコーナーを見ていて気づくのは、かつて――おそらくは1970年頃を前後して、写真表現に波紋を投げかけていた写真が、着実にふたたび注目を集めつつあることです。
 そのような傾向が、もっとも顕著にみられる例として挙げられるのが、例えば、第1巻『顔写』・第2巻『裸景』(平凡社・共に2200円)が刊行され、これから毎月1冊、全20巻が出されるという、荒木経惟氏の写真全集でしょう。荒木氏といえば、ここであらためて述べるまでもなく、精力的な発表活動によって、とりわけここ数年、話題にならない日がない位に大きく着目されている写真家ですが、それにしてもやはり、その仕事がこうして全集という形でまとめられることは、ひとつの出来事といってよいでしょう。
 今後、『陽子』『ニューヨーク』『少女』…といったタイトルが続いて出版されていく全集は、年代順ではなく、何らかの分類によって編まれていくようです。はじめに刊行された2冊の内容は、題名のとおり、初期から最近までの写真から顔と裸の写真を編んだものですが、それを見て感じるのは、かつてスキャンダラスであった荒木氏の写真が、いまや私たちにとって、さほど違和感のないものになっていることではないでしょうか。もちろんそのように感じるのには、時代の変化という背景があるのでしょうが、それにしても現在こうして、「天才アラーキー」という言葉から冗談めかしたニュアンスが払拭され、スキャンダラスであった「私写真」が抵抗なく人々に受け入れられていることを想うと、隔世の感があります。
 また、ユニークな写真集を企画している“フォト・ミュゼ”シリーズからは、森山大道氏の『にっぽん劇場写真帖』(新潮社・2500円)が刊行されています。同書は、森山氏の、はじめての写真集として27年前に出されたものの、復刻版です。森山氏の写真もかつては、「ブレボケ」などと称され、端的にいえば、新しい世代によるわからない写真の代表的なものであったのでしょうが、いまこうして見てみると、いささか懐かしい感じすらする、むしろ親しみやすいものであるように感じられます。これもまた、時代の変化によるものでしょうか。森山氏は自著の復刻について、後記で次のようにいっています。
 「もしかつての、ある一冊の写真集に価値があったとしても、それを規定するのは、それを巡り漉して介在する時間や時代、そして状況などといった圧倒的他者の手ではないだろうか」。
 写真の価値がそうしたものであるなら、かつての写真を、いま見るとき、必要になってくるのは、たんにそれらを懐かしんだり楽しんだりするだけでなく、その間に時代や状況などが、どのように変化してきたのかを、同時に考えてみることではないでしょうか。
 例えば、かつて、写真は記録であるべきか表現であるべきかといったことが、大きな問題として熱く語られた時代がありました。「私写真」や「ブレボケ」が何らかの意味で、いわばスキャンダラスであった理由のひとつは、それが記録ではなく鮮烈な自己表現であるように捉えられたことにあるでしょう。
 浅草の人々を、シンプルな背景で撮ることで、人物の姿を浮び上らせた写真をまとめた鬼海弘雄氏の『や・ちまた−王たちの回廊』(みすず書房・3914円)を見て気づくのは、そうした時代の変化の中で、写真における記録ということの意味合いもまた変わってきたであろうことです。人物を背景によって説明するのではなく、背景をシンプルにすることで、人物そのものに焦点を当てようとする、鬼海氏にみられるような手法は、記録と表現という問題の中で、記録性を徹底させていく手法として培われてきたものであるように思われます。しかし今日、その手法による写真をこうして見る時、そこから感じられるのは、かならずしも記録性ということだけでなく、鬼海氏ならではの表現ということでもあるでしょう。
 新正卓氏の『沈黙の大地』(筑摩書房・5800円)もまた、写真における記録ということの変化を想わせる写真集です。シベリアに抑留された日本兵捕虜たちの軌跡をたどった同書には、どこにも出来事を告発するような構図がなく、逆に、淡々とシベリアの風景や建物、人々が写し出されています。しかし、おそらくは大型カメラで撮られたのであろう写真の細密な描写は、読者の想像力を呼び起こすのに充分な力をもっています。このような手法も、当初は記録性を徹底させていく手法として培われてきたものでしょうが、今日では同時に、新正氏がこの作業を「記憶を探す旅」というように、その独自の用い方によって、より幅広い表現を担いうる手法に変化してきたといえるでしょう。
 一方で、「私写真」や「ブレボケ」が違和感なく受け入れられるようになり、もう一方で、写真における記録ということの意味合いも変化してきている、このような移り変わりは、とても単純にいえば、記録か表現かという問題と、そこで生み出された手法が、時代変化の中で、様々な手法による、様々な表現というふうに問題の形を変えてきたということでしょう。あるいは、新正氏の言葉を借りるなら、写真は記録か表現かという問題は、写真はどのような記憶を孕みうるのかという問題に、移り変わりつつあるということでしょうか。いずれにせよ、表現の幅が広がり、また様々になってきたということは、自由な表現が可能になったということであると同時に、写真を撮るにせよ、見るにせよ、様々な事柄を吟味する力が求められているということでもあるでしょう。