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[現代写真との対話12:言説の場が生み出す「現代写真の価値=意味」をもう一度問い直す…/日本カメラ1996年3月号:186-187]


 現代写真のわかりにくさや難しさを、できるだけはっきりと捉えることを、試みようとしてきたこの連載ですが、いかがでしたでしょうか?今回は、この連載で重視してきたことを振り返りつつ、繰り返し何らかの形で問題にしてきた表現の価値観についてめぐり、現代写真の価値=意味について、ふたたび考えてみたいと思います。

 この連載では、初回に述べたように、現代写真のわかりにくさや難しさを、できるだけはっきりと捉えることを、試みてきました。その当初の試みが、どれほど果たせたかについては、はなはだ心もとないところですが、わかりきったことだとされてきたことを、再び問い返しつつ、願わくばその問いにしかるべき解答を与えるのではなく、写真表現の輪郭が照し出されるような問いの形を浮び上らせることを、心がけてきたつもりです。
 もうすこし具体的にいってみるとするなら、この連載は、次のようなことを注意しながら進めてきたつもりです。ひとつは、表現の価値観そのものを疑うという現代写真における認識の質の変容を、疑うということそれ自体を目的とするのではなく、きょくりょく問いの形を浮び上らせるための方法として受け止めることです。そして、もうひとつは、過去の写真、あるいは、今この時代の写真を形作っている諸々の表現が、いかにそのようにみえようとも、けっして不変不動のものではないことを念頭に置くことです。
 このふたつは、いっけんとても簡潔なことにみえます。けれども、ひとたび考えはじめると思いのほか困難な問題を含み込んでおり、それぞれのことが絡み合っている部分も多く、また、写真表現の現在にも関わりがあることのように思われますので、いますこし掘り下げてみましょう。
 ひとつめの、表現の価値観そのものを疑うという現代写真における認識の質の変容、ということについては、この連載でも、くどいくらいに繰り返しいってきましたし、価値観の崩壊や多様化といったことが、日々そこここでいわれていますので、今日の私たちにとっては、感覚的にとてもなじみやすいことでもあるでしょう。しかしながら、価値観を疑うことが、いかに感覚的に受け止めることがたやすく、また明快な姿勢にみえるとしても、いざじっさいにそれを表現の場面で汲み取ろうとすると、誰しも思い当たるであろう根本的な困難に突き当たります。表現について考えるとき、私たちは必ず何らかの尺度を基に考えています。そしてその尺度は、ある一定の価値観に彩られているに違いありません。したがって、もし価値観そのものを疑うことを徹底しようとすると、そこには考えるための尺度すら残らないかもしれないのです。
 この困難は、価値観を疑うという価値観を疑うことができるか、という問題に移し変えることができるように思われるかもしれません。しかし、価値観そのものを疑うというのは、現代の写真表現に課せられている条件とでもいうべきものであって、けっして正しさを保障する視座ではありえません。にもかかわらず、現代写真の展開を批判的にみるならば、価値観を疑うということを価値観とみなすような視座こそが、疑う自らを美化し、疑うという姿勢があたかも万能の価値であるかのようにふるまう気分を作り出してきたことが、容易にみてとれるでしょう。こうした気分に織り込まれることをきょくりょく退けながら、ある尺度を仮説として用いながら写真表現の構図をみるためには、疑うことを目的とするのではなく、問いの形を浮び上らせるための方法として受け止めることが必要であるように思われたのです。
 価値観そのものを疑うことが目的化され、そのことが無意識に価値を孕んでくるとき、現代の表現の、曖昧さや揺らぎといった多義性、そして快楽や欲望といった直接性が、にわかに正しさを担うものに変質してきます。例えば今日、〈わからない〉〈まよっている〉といった姿勢は、〈このようにすべきだ〉という姿勢より、実感としてはよほど誠実な姿勢であるようにみえるでしょう。あるいは、〈好きなものは好き〉〈やりたいことをやる〉といった姿勢は、感覚としてはとても正しいもののように思えるでしょう。けれども、実践的な側面においては、つねに何らかの判断が求められるものです。その判断が、〈わからない〉が〈好きなものは好き〉というのでは、なんとも場当り的で、はなはだ無責任といわざるをえないでしょう。また、それぞれの〈好きなもの〉が対立したときに、〈やりたいことをやる〉という姿勢は、無自覚に対立を深めるものでしかないでしょう。
 多義性や直接性といったことがらは、価値観そのものを疑うことを課せられた現代の写真表現が抱え込んだ、真摯に向き合うべき問題です。また、価値観を疑うということは、どのような価値観でも正しいということと同義ではありません。〈わからない〉が〈好きなものは好き〉というような姿勢は、誠実なもののようにみえて、そのじつこのように、趣味や嗜好の相対性を、正しさの相対性にまで拡張した、排他性を根本的に含んだ姿勢になるおそれを潜在的に孕んでいるのです。
 ふたつめの、諸々の表現がけっして不変不動のものではないことを念頭に置く、ということは、ここに関わっています。趣味や嗜好の相対性が、正しさの相対性にまで拡張されるとき、その背後にあるのは、これまでもそうであったし、これからもそうであるに違いない、あるいは、より良く変わっていくに違いない、というような表現の自律性への無根拠な信頼です。しかし、写真史をたどりつつみたように、この自律性とは、写真家や写真、技術や思考の独特の関係によって形作られたものにすぎず、ときには自らを消し去ってゆくこともある、はなはだ頼りないものでもあります。現在私たちが立脚している、写真家や写真、技術や思考の関係、そこから描き出している写真表現についてのイメージもまた、けっして恒常的なものではありえず、ごく近い未来に忘れ去られていく可能性も充分あるのです。
 もちろん、現在の写真表現が消え去り、来るべき新たな何ものかに取って代られていくことは、かならずしも悪いことではないでしょう。しかし、だからといって、それが良いことである保障もどこにもありません。例えば、表現の多義性について考えるとき、私たちは、表現は多義的であるはずだと考え、次いで、しかるべき〈多義的な表現〉があたかもどこかに在るかのように思い、そして、いつかその〈多義的な表現〉が訪れるように楽天的に未来を描きがちです。けれども、そもそも〈多義的な表現〉とは何か、と考えずに、どうして〈多義的な表現〉が実現することがありうるでしょうか。また、それを考えていなければ、仮に実現したところで〈多義的な表現〉が望ましいものかどうかすら、判断することができないでしょう。
 そのような、無根拠で楽天的な未来図に沿って現代写真を描かないためには、諸々の表現がけっして不変不動のものではないことを念頭に置くこと、つまりこの例でいえば、〈多義的な表現〉をむやみに渇望するのではなく、〈多義的な表現〉という言説をめぐって、いかに今日の写真家や写真、技術や思考の独特な関係が形作られているか、を考えることが重要であるように思われたのです。
 さて、紙幅も尽きてきたようです。これまで話してきたことを踏まえて、では、現代写真の価値=意味についていかに考えるべきかを、述べておくべきでしょう。評論家のヴィクター・バーギンは、写真をめぐる考察も多く含んだ本『現代美術の迷路』で、写真の価値=意味について、次のようにいっています
 「写真の意味を根本的に決めているのは、カメラマンでもなければカメラでもなく、また被写体でもない。意味はその映像を見る行為の中に生まれ、それを語る言葉の中に生み出されるのだ」。ここで彼が語っているのは、むろん、写真を見る/語ることの楽天的な自由ではありません。彼は続いてこのようにいいます。
 「知識というものは、われわれが自覚し意識したうえで選ぶものばかりではない。それと同じように、眠っている知識のどの部分が映像の刺激を受けて目覚め、再活性化され、再強化されるのか、われわれにはわからない。どんなに『公正無私な』審美的見方、『純粋に視覚的』な理解を心掛けても、映像は見られた瞬間に必ずや複雑に絡み合った心の中の知識のネットワークに突き合わされ、統合されてしまう。映像は、このネットワークが構成する意味を再現=表象するしかなく、それ以外いかなる選択の自由もない。…あらかじめ構成された言説の場、それが写真の実質的な『作者』であり、写真も写真家も一様にこの言説の場によって生み出されたものなのだ。そして写真を見る者も、見る行為において同じくこの言説の産物となるのだ」。
 今日、写真や写真家、批評や批評家は、なるほどかつてのように実体として写真の価値=意味を担っているわけではないでしょう。けれども、それらはまぎれもなく言説の場の産物として、しかるべき価値=意味を担っています。この価値=意味の責任について問いかけられることは、実体としての写真家や批評家、観賞者にとっていわば不条理なことにも思えるかもしれません。しかし、言説の場を形作る、写真を作る/見る/語るといった営為において、この不条理ともいえる価値=意味の責任の問いかけに応えること、それが、今日の現代写真に求められている倫理ではないでしょうか。