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[現代写真との対話10:反省的視座の変質/日本カメラ1996年1月号:178-179]


 前回は、理念を拒絶しながらも、新しさを競い合うような状況を、写真表現のポストモダンとして述べました。これを、写真表現の価値観そのものを疑うという、現代写真の認識の質の変容と重ね合わせてみると、そこには大きな矛盾があるように思われます。なぜ、矛盾しているようにみえる、このような状況と認識が共存しているのでしょうか。60年代の現代写真の展開を捉え返しながら、このことについて考えてみたいと思います。

 前回の最後に、「80年代から今日にかけての写真表現を彩っているのは、近代の表現の理念を形作る物語を忌避する気分を、語るともなく語ることによって、近代の表現がもつ新しさを競い合う効果のみを存分に発揮するような、独特の言説空間としてのポストモダンであるように思われる」、ということを書きました。このことを、繰り返し述べてきた、「現代写真とは、たんにそれまでの写真史の延長にあるものではなく、写真史や表現の価値観そのものを疑うという認識の質の変容のうえにある」、という捉え方に照し合せてみるとき、そこには著しい隔たりが感じられます。
 この隔たりは、写真史や表現の価値観そのものを疑う認識と、近代の表現がもつ新しさを競いあう効果のみが発揮されるような状況が、なぜ共存しうるのか、という問いに置き換えることができるでしょう。写真表現の価値観そのものを疑うような質の認識は、あらわれとしては従来の価値観への批判というかたちをとりますから、なるほど結果としてある新しい風潮が、そこから生み出されることは往々にしてありうることです。けれども、もしそこで新しい風潮を生み出すことが目的化され、新しさを競いあう効果のみが発揮されるような状況があるなら、そのような価値観もまた疑われてしかるべきでしょう。
 しかし、今日の写真表現を省みてみると、現状はかならずしもそうではないようです。そうした現状を捉え返してみるために、今回は、連載のはじめに述べたロバート・フランク(Robert Frank)が体現した現代写真の転回点に、あらためて立ち戻りつつ、その後の現代写真の展開について考えてみたいと思います。
 フランクが体現した転回点とは何か? 要約すれば、それは次のようなものでした。――50年代の末にフランクが出版した『アメリカンズ(The Americans)』という写真集は、ブレたりボケたりした調子、日常の断片を寄せ集めたような写真で編まれ、ひとことでいえばアメリカの影をイメージさせるようなものだった。このような『アメリカンズ』はたんに衝撃的であっただけでなく、共通の理想が失われていった60年代という時代と共振し、写真表現においても、それまでの共通の理想や写真史が形作ってきた価値観を洗い直すことを、導き出した。
 フランク以降の写真表現を象徴する展覧会としてよくあげられるものに、60年代半ばに、ジョージ・イーストマン・ハウスで開かれた『コンテンポラリー・フォトグラファーズ−社会的風景に向って』があります。選出された、リー・フリードランダー、ゲリー・ウィノグランド、デュアン・マイケルズ、ブルース・デヴィッドソン、ダニー・ライアンの五人の顔ぶれからもうかがわれるように、この展覧会はそれまでのような、報道写真や芸術写真、肖像写真や静物写真といった分類にしたがったものではありませんでした。風景という概念が、古い解釈から、人間と人間、そして人間と自然の結びつきという相互作用を指すものに代るべきだという、企画者のネイサン・ライオンズは、同展のカタログでこういっています。
 「過去においてわれわれは、写真家たちの作品をドキュメンタリーとか社会的リアリズムといった言葉で評価してきたが、それは主題の認識にもとづいた一般的な考察でしかなかった。『社会的風景に向って』は、新しい写真のジャンルづくりをめざしているわけではなく、われわれのいるこの環境や風景に対する概念を拡大するという意味合いを含んでいる」。
 主題の認識にもとづいた一般的な考察から写真を評価するのではなく、また新しい写真のジャンルを提唱するわけでもない、というこの文章からは、展覧会の趣旨を受け取ることは難しいものの、フランクが体現した転回点を継承している姿勢は、とてもよくうかがうことができます。この姿勢は、共通したテーマで括られていたわけではなかった、60年代をリードした5人の写真家の写真に共有されていた姿勢でもあったといえるでしょう。こうして同展で提示されたのは、それまでの写真観に対する問いであると同時に、一般性や主題を拒絶しつつ、いわば消極的に、ありふれた日常的な場面に向っていく写真家の姿勢、ライオンズがいうところの風景に対する概念の変化でした。
 このように、フランクが体現した現代写真の転回点から現代写真の展開をみてみるとき、いくつか気づくことがあります。その一つは、現代写真の転回点とは、まぎれもなく言説的な展開であったことです。『アメリカンズ』が、どれほどそれまでの写真表現の修辞法を否定したものであろうと、それが従来の写真観を洗い直すきっかけになるには、『アメリカンズ』のリアリティと従来の写真観への批判を結びつける言説が、かならずどこかで必要であったと思われます。こうした観点から考えてみるならば、共通したテーマがあったわけではない、『コンテンポラリー・フォトグラファーズ』が、現代写真の転回点を明確化しえたのは、そこでの写真作品が孕むリアリティと従来の写真観への批判を結びつける言説が、はっきりと打ち出されたからにほかならないでしょう。
 もう一つは、この言説的な転回が、写真表現が写真表現そのものに問いかけるような、自己言及的な質を、写真表現にもたらしたことです。写真がある一般性や主題を伝えるための媒体でないとするような視点を徹底していくなら、写真が寄って立つ在処は、写真そのものにしかないことになります。写真家にしてもまた然りで、写真家が寄って立つ在処は、写真家という存在にしかないことになるでしょう。
 このようにいうと、何やら雲をつかむようで、とても今日の写真表現から、かけはなれた話のように思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。私たちは、普段あたりまえのように、〈写真を撮る〉とか、〈写真を見る〉といってはいないでしょうか。写真で何かを撮るのではなく、〈写真を撮る〉ことが一義に目的とされること、写真で何かを見るのではなく、〈写真を見る〉ことが一義に目的とされること、これは考えてみれば奇妙なことではないでしょうか。その奇妙さは、写真表現が写真表現そのものに問いかける、自己言及的な質が孕む奇妙さでなくてなんでしょうか。
 こうした自己言及的な質は、写真とは何かと問いかける写真、写真家とはいかなる存在であるかと問いかける写真家といった、いっけんとても反省的な視座を生み出すものでもあります。しかし、他方でこの反省的な視座は、それが従来的ないし今日の写真表現の価値観の批判に惰性的に向けられるときには、自らが属する位置だけは不問にしながらも、あらゆる既存の制度や価値観を無根拠に否定し、空想の次元での写真表現の自由や多様性をいたずらに説くような、とても無責任な姿勢を保障するものでもあるのです。そしておそらく、現代写真の自己言及的な質が導き出す反省的な視座が、こうした姿勢へと変質するとき、写真史や表現の価値観そのものを疑う認識と、近代の表現がもつ新しさを競いあう効果のみが発揮されるような状況は、充分に共存しうるものになるのです。