[BOOK REVIEW:新着写真集紹介/nikkor club #154 1995 autumn:86-87]
戦後50年を機に編まれた写真集を中心に紹介した前号では、「戦後の写真表現の変容は、何を写したかということと同じか、それ以上に、どのような視点でいかに写されたのかということが問われるようになったことだ」、ということを書きました。折しもここのところ、そのことを具体的に見ることができるような写真集の出版が、戦後50年に関連して続いていますので、今回はそうした写真集をとりあげてみたいと思います。
まず、注目したいのは、相次いで刊行された、昭和の写真表現を切り開いた2人の巨匠、土門拳と木村伊兵衛の仕事を編んだシリーズです。全5巻で出された『土門拳の昭和』(小学館・各巻2500円・3、5巻は2800円)は、「第1巻/風貌」「第2巻/こどもたち」「第3巻/日本の風景」「第4巻/ドキュメント日本1935−1967」「第5巻/日本の仏像」というラインナップで構成されており、土門氏の力強い仕事の全貌を見るのに充分なボリュームを持っているといえるでしょう。
他方、全4巻、「第1巻/戦前と戦後」「第2巻/よみがえる都市」「第3巻/人物と舞台」「第4巻/秋田の民俗」というラインナップで刊行された、『木村伊兵衛 昭和を写す』(ちくま文庫・各巻 800円)は、文庫という体裁を活かしながら、木村氏の生涯にわたる仕事を貫いている、しなやかな写真のニュアンスをよく伝えてくれる構成で編まれています。土門氏も木村氏も、日本を代表する写真家でありながら、その業績を実際にこのようにまとまった形で見ることが難しかったのですが、この2つのシリーズの出版によって、昭和の写真の原点というべきものを、容易に見て感じとることができるようになったことの意義は大きいでしょう。
両氏の質量ともにあまりに多大な業績について、ここで細かに述べることはできませんが、2つのシリーズから見てとれることを、大きく捉えていうならば、頑強な意志に支えられた土門氏の写真と、ゆらぎを孕んだ木村氏の写真といった、よく両氏について語られる違いがあるにせよ、その写真表現は共通して、写すべき何らかの事象があるということを、写真が明確に担っていた時代に育まれたものであるということではないでしょうか。いいかえるなら、そこで問題になっていたのは、写すべき事象のリアリティを逃さずに写真で捉えるにはいかにすべきかということであり、何を写すかという問いと、いかに写すかという問いとが、とても密着していたように思われるのです。
そのような両氏の写真表現と、新編集で復刻された東松照明氏の『長崎〈 11:02〉1945年 8月 9日』(新潮社フォトミュゼ・2000円)を比べて見るとき、私たちはそこに、ある隔たりを発見せずにはおれません。それは、60年代というさまざまな価値が混迷する時代を、写真表現で先駆けて受け止めた東松氏においては、いっけん「長崎」という写すべき明確な事象があるように見えながら、いかに写しどのような視点でそれを構成するかによって、「長崎」という事象のリアリティそのものが大きく違ってくるという問題が抱えられているということでしょう。このことは、本書を含んで3回出版されている東松氏の長崎シリーズが、毎回編み直されているという姿勢、あるいはつぎの言葉にもはっきりと表れています。「この写真集は、原爆の被害記録だけを編んだものではない。あえて性格づけるなら、原爆による悲惨を礎とし、その上に構築した都市像とでもいうか、写真で綴る都市論である」。隠喩に富んだ東松氏の写真は、このような視座からはじめて導き出されたものだといえるでしょう。
このように隠喩として写真を捉える方法論は、江成常夫氏の『記憶の光景・十人のヒロシマ』(新潮社・1400円)で、きわめて意識的に用いられているものでもあります。被爆者10人からの、被爆体験とその後の日常の聞き書きをもとにしたルポルタージュに織り込まれた写真は、そのほとんどが具体的に「広島」を現すというより、ありふれた風景のように写されています。しかし、そうして抽象化された風景は、その分、より豊かに読者自身が「広島」を想像する隠喩として働き、文章と関連しながら考えることを誘いかけているのです。
また、長野重一氏の『時代の記憶1945−1995』(朝日新聞社2900円)では、こうした戦後の写真表現の変容が体現されているように見えます。長野氏の写真が年代順に編まれた本書には、時代の変化だけではなく、時代を見つめる写真家の視点の変化がともに浮び上っているといってよいでしょう。時代とともにさまざまな価値が不確かになり、写すべき事象もより曖昧に見えにくくなっていくなかで、どのような視点でいかに写すのかという写真の文体とでもいうべきものが、粘り強く模索されている様相がこの写真集には刻まれています。
土田ヒロミ氏が、被爆資料を記録した『ヒロシマ・コレクション』(NHK出版・2500円)と、被爆した事物をとりまく風景を定点観測した『ヒロシマ・モニュメント』(冬青社・3800円)からは、このように変容してきた写真表現の、もっとも今日的な在りかを見出すことができるでしょう。写真を「事物の表層しかとらえることのできない表現媒体」と捉える土田氏は、この2冊の写真集で、写真の文体をも極力抑制することで、事物や風景の表層をできるだけ緻密に捉えようとし、写真の限界そのもののなかに可能性を見つけようとする、いわば逆説的な方法論を用いています。その意味でこの2冊は、収められた写真をいかに見るかということをも問いかける写真集だともいえるでしょう。そして、このように考えるとき、『ヒロシマ・モニュメント』のつぎのようなあとがきが、土田氏だけでなく、いま写真表現が深く考えるべき問題を鮮やかに物語っているように思えてくるのです。「定点観測を終えて、私は思いもよらなかった自分自身を発見することになった。二葉の写真を見比べ、ただ、見ることの快楽に耽溺する私がそこにいたのである。〈ヒロシマ〉の変容の質を見定めるつもりが、〈ヒロシマ〉を意識化することの困難さの証に終わってしまっているのではないかというおそれを、今抱いている」。