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[現代写真との対話9:ポストモダンの言説空間/日本カメラ1995年12月号:152-153]


 少し前まで、社会や文化のいろいろな領域で、ポストモダンということが盛んにいわれていました。それは、多くの人が写真表現に関心をよせるようになった、ここ10年ほどの時期と、ちょうど重なっているといってよいでしょう。ここでは、写真のポストモダンとは何であったか、と直接に問いかけるのではなく、ポストモダンと呼ばれた時期に、どのような環境が写真表現において育まれてきたのかを、考えてみたいと思います。

 前回は、見ることに対する写真表現の比重の増大を、作者−作品という関係に代えて、読者−テクストという関係を重視する、いわゆるテクスト論との関連からみてみました。そのなかで、強調こそしませんでしたが、写真表現を読者−テクストという関係において捉えるとき、見ることに対する比重の増大とは、写真を読むことに対する比重の増大である、といいかえることもできるでしょう。
 しかし、このように改めて「写真を読む」ということには、なんらかの抵抗が感じられるかもしれません。抵抗を感じるもっとも大きな理由は、おそらくこれまで、〈写真の魅力は言葉にならないことだ〉と語られることが多かったからでしょう。けれども、視点をもう少し広くとって、近代の芸術という観点から考えるなら、たとえ写真の魅力が言葉にならないものであるにしても、言葉が写真表現に必要不可欠なものであったことが、ただちに浮び上ってきます。
 近代の芸術の大きな特徴として、階級社会に保護されたそれまでの芸術と違って、大衆化した社会を前提にしていることがあげられます。また、近代の芸術を英語でいうなら、モダン・アートであり、モダンの語源はラテン語のモデルヌスに至るといわれていますが、その語感からもうかがわれるように、モダンという語は、モデル(型)やモード(時代の様式・ファッション)という語にも関連しているようです。大衆化した社会のなかで、それぞれの違いを示す必要が生じてきた、近代における芸術は、モード=ファッションのように、新しさを競いあい、様式が絶えず移り変わるものとなっていきます。
 そしてそのとき、それぞれの違いを示すために、必要不可欠なものになってくるのが言葉なのです。近代の芸術の流れをみればわかるように、近代の芸術運動には、芸術がありそれを語る言葉があるのではなく、まず言葉がありそれに触発されて芸術作品が生れるといっていいくらいに、自らを語る多くの言葉が登場します。近代の芸術の空間とは、とりもなおさず、こうして批評や宣言などの言葉によって成り立っている、言説の空間でもあるのです。
 近代に生れた写真表現もまた、こうした言説の空間と無縁であるはずがありません。このような視点から捉えるならば、〈写真の魅力は言葉にならないことだ〉という言葉は、写真の本質を示すというよりは、写真と他の芸術の違いを示すためのもっとも典型的な言葉であり、それゆえにさまざまな形で絶えず語られてきたのだ、と考えることができるかもしれません。
 また、別のいいかたをするなら、そもそも近代の芸術が言説の空間として成り立っているからこそ、テクスト論的な視点が、文学に限らず、現代の写真やいろいろな表現に大きな影響を与えていった、ともいえるでしょう。いずれにせよ、こうしたことを踏まえるならば、読者としての観賞者−テクストとしての写真というテクスト論的な関係において写真を見ることとは、写真を読むことであり、さらに、写真表現の言説空間と絶えず関わり合うことであるといっても、いいすぎではないように思われます。
 写真を読む、というならまだしも、写真表現の言説空間などというと、とても堅苦しい感じがして、理屈としてはともあれ、いささか抽象的にすぎる話に思えるかもしれません。しかし、多くの人が写真表現に関心をよせるようになったここ十年ほどの、写真表現をとりまく環境を振り返ってみれば、この時代が、たとえそれと明確に自覚されなかったにせよ、見ることに対する比重が増大するとともに、かつてなく写真表現をめぐってさまざまな言葉が行き交った時代でもあることに、思い当るのではないでしょうか。
 今でこそあまり使われなくなったかもしれませんが、ここ10年ほどのこのような時代は、ポストモダンという名称によって考えることができる時代かもしれません。直接には近代の後を意味するこの名称は、1970年代にアメリカの建築やデザインの領域で用いられはじめ、じょじょに広く思想的・文化的な転換を指すようになったものとされています。では、その思想的・文化的な転換とはなにか。一言ではなかなかいいにくいのですが、ポストモダンの文化とされるものに共通していわれたことをあげるならば、近代の理念を形作った大きな物語への不信、領域を超えた引用と折衷の表現といったところになるでしょうか。
 こうしてポストモダンについて述べてみても、いよいよ抽象的になっていくだけのように思えるかもしれませんので、具体的な例で考えてみましょう。ポストモダンの表現を代表するひとりとして、よくとりあげられる人物に、B級映画の役者や、有名な肖像画の人物に扮した写真作品でしられる、シンディ・シャーマン(Cindy Sherman)という女性作家がいます。シャーマンについて、批評家のリンダ・ハッチオンは、『ポストモダニズムの政治学』という本のなかで、たとえば次のようにいっています。
 「シンディ・シャーマンは眼差しの男性性に挑戦するのにもう一つ別の方法をみつけた。彼女は自分の体を使って社会的・メディア的類型を装った多くの自画像を作成しているが、それがあまりに自己意識的ポーズを取っているために、男性の視線によって固定された女性の自己の社会的構築が、提示されると同時にアイロニー化されてしまう。なぜなら彼女自身がカメラの背後の眼差しであり、積極的な不在の存在であり、記号としての女性、ジェンダーによって――さらに人種と階級によって――位置づけられた女性についての表象の主体であり客体なのである」。
 男性が中心となって形作られた近代の大きな物語を、シャーマンはあえて映像の類型を引用することで暴き出す――、ここに引いた文章からは、ポストモダンの表現の典型的な姿をみることができます。またここに、シャーマンが美術家ではあるが、伝統的な美術の枠にとらわれず、写真を用いることで、領域を超えて制作していることを、付け加えることもできるでしょう。しかし、こうしたことと同時に、注目しておきたいのは、いっけんたんなる風変りなセルフ・ポートレイトを撮っているだけのようにもみえる作品が、かくも多くの言葉によって彩られていることです。このような傾向は、先頃出版された『Cindy Sherman 1975-1993』という作品集において、さらにきわだっています。そこにみることができるのは、シャーマンの作品の変遷であるとともに、共著といっていいくらいにそれを丹念にめぐった批評家ロザリンド・クラウスの文章なのです。
 むろん、ここ10年ほどの写真表現をとりまく環境において、私たちは、テクスト論的な視点や、ポストモダンの表現の言説空間ということを意識して、細かに語ったわけではないでしょう。けれども、写真をめぐって行き交う多くの言葉を、いつのまにか読むともなしに読み、語るともなく語っていたことは、誰しも思い当るところがあるのではないでしょうか。
 かつてないほどに、写真が見られ読まれたであろうこの10年ほどの時代は、とりわけ日本の写真表現にとっては、新しさを競いあうという意味において、どちらかといえば、モダンという名称がふさわしい時代であったのかもしれません。にもかかわらず、それを、ポストモダンという名称によって考えることができる時代かもしれない、といったのは、理念を形作る物語を忌避する気分だけは、そこに充分染み渡っていたからです。こうして、80年代から今日にかけての写真表現を彩っているのは、近代の表現の理念を形作る物語を忌避する気分を、語るともなく語ることによって、近代の表現がもつ新しさを競いあう効果のみを存分に発揮するような、独特の言説空間としてのポストモダンであるように思われるのです。