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[現代写真との対話8:「見る」ということについて/日本カメラ1995年11月号:142-143]


 写真を見て味わうという行為を、今日の私たちは、あたりまえのように行っています。それは、親しみやすい表現メディアになった写真が、より多くの人々の関心を呼ぶようになった、ということでもあるでしょう。しかし、写真を見るということが現在、写真表現のなかで、これだけ大きな比重をしめているということには、それだけにとどまらない、表現の今日性との深い関わりがあるのではないでしょうか。

 今日、写真に関心があるというとき、それは、写真を撮って表現することに限らず、写真を表現として見ることでもあるでしょう。写真を見て味わうことに対する関心は、現在あたりまえのことになっているだけに、あんがい見落としてしまいがちですが、この十年ほどの間の大きな変化といってよいでしょう。写真についての本を例にとっても、いかに撮るかということが書かれたものより、いかに見るかということが書かれたものが、とても多いことに気づきます。
 この、見るということに対する写真表現の比重の増大については、身近で親しみやすい表現メディアになった写真が、より多くの人々の関心を呼ぶようになった、というふうに語られることがしばしばあります。たしかに、現象としてはそうでしょう。けれどもその一方で、この変化を、前回述べたような、作者や作品がそれ自身に対する疑いをすでに含み込んでいるという、現代写真の独特な性質に照し合せてみるとき、そこには、たんなる現象にとどまらない、現代写真の性質との深いつながりが浮び上ってくるように思われます。
 これまでも、折に触れていってきたように、現代の写真表現は、その根底にあらゆる価値観を問い返すような認識の変容をはらんでいます。この変容は、むろん作者や作品という具体的な側面にも、影響を及ぼさずにはおきません。図式的にいえば、かつて作者とは、確固とした伝えるべき意図を、写真で効果的に作品に表す存在であり、写真を見るとは、その作者の意図をできるだけ精確に受けとろうとする受動的な行為でした。そしてこの関係を安定したものとして支えてきたのは、社会はこうあるべきだとか、人間はこうあるべきだというような、共通の理想に基づく価値観でした。
 そのような共通の理想に基づく価値観が、現代写真において疑われ、問い返されるならば、同時に、それに支えられてきた作者と作品の安定した関係が問い返されるのは避け難いことです。現代において、理想や価値観が描き出す未来よりも、それらが個々人を抑圧する側面が強調されるようなってきたように、作者と作品の安定した関係が送りだすメッセージが、理想や価値観を見る人に強いる図式そのものが、問題として立ち現れてくるのです。そして、それとともに、作者と作品の安定した関係から、固定された意図を受けとる消極的な位置にあった写真を見るという行為を、作者と作品の関係から生じる問題を浮び上らせる積極的な行為として、見直していくような観点が重視されるようになってきます。
 「読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわなければならない」。作者と作品の安定した関係ではなく、読むという行為を重視する観点を、象徴的に語っているこの言葉は、「写真のメッセージ」や『明るい部屋』などの写真論でも知られる、フランスの文芸批評家・記号論者、ロラン・バルトによるものです。彼は、この言葉で締め括られた「作者の死」という文章で、つぎのようにいっています。
 「作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である。…作者は今でも文学史概論、作家の伝記、雑誌のインタヴューを支配し、おのれの人格と作品を日記によって結びつけようと苦心する文学者の意識そのものを支配している。現代の文化に見られる文学のイメージは、作者と、その人格、経歴、趣味、情熱のまわりに圧倒的に集中している。批評は今でも、たいていの場合、ボードレールの作品とは人間ボードレールの挫折のことであり、ヴァン・ゴッホの作品とは彼の狂気のことであり、チャイコフスキーの作品とは彼の悪癖のことである、と言うことによって成り立っている。つまり、作品の説明が、常に、作品を生みだした者の側に求められるのだ。あたかも虚構の、多かれ少なかれ見え透いた寓意を通して、要するに常に同じ唯一の人間、作者の声が、《打ち明け話》をしているとでもいうかのように」。
 このように、作者と作品の関係を批判するバルトは、作品をテクストとして捉えることを主張します。テクストとは何か。「テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」。
 抽象的で難解な文章ですが、思いきって単純化するなら、作品が作者の意図を表し、読者に受動的に唯一の意味を受けとることを強いるものであるのに対し、テクストは読者の読みによって、多様で複数的な意味が積極的に生み出されるものである、ということになるでしょう。このように、作者と作品の関係を退け、新たに読者とテクストという関係を提起したバルトの考え方は、文学に限らず、現代の表現に大きな影響を与えることになりました。むろん現代写真もその例外ではなく、バルトが写真論を書いていることもあって、強い影響を受けたといってよいでしょう。例えば彼が、「写真のメッセージ」という文章で書いたつぎのような部分は、写真をめぐる文章に幾度となく引かれてきたものです。
 「現実から写真に移るために、この現実をいくつかの単位に切り分け、これらの単位を、読み取らせるべき対象とは実質の異なった記号に構成する必要は全然ない。…確かに映像は現実ではない。しかし、それは、少なくとも、完全なアナロゴン〔類似物〕である。そして、常識のレベルで写真を定義するものは、まさにこの完璧な類似性なのである。こうして、写真による映像の特殊な本質規定が明らかとなる。すなわち、それはコードのないメッセージである」。
 バルトのいう、読者とテクストという関係、そして、写真が歴史観や価値観から導き出される社会的・文化的制度から逃れるものだと読むこともできる、このコードのないメッセージという写真の本質規定などは、前回述べた、歴史観や価値観に対して反作用的であるという現代写真の原理に、とてもよくなじむものでもあります。しかし、それだけに、こうした考え方が、作者と作品の安定した関係が問い返されるような、社会的・時代的背景から生じてきたということ、また、見るということに対する写真表現の比重の増大という現象が、そうした文脈に深く関わっている質的な変容でもあることは、忘れてはならないでしょう。
 なぜなら、そのことを忘れたとたん、こうした考え方は、作者や作品がそれ自身に対する疑いをすでに含み込んでいるという現代写真の独特な性質を、たんに肯定するための簡便な考え方に転化する危険を多分にはらんでいるからです。いいかえれば、読者とテクストという関係は、なによりもまず、特定の歴史観や価値観のみを絶対視するような観点を批判する仮説なのであって、その考え方の口当たりのいい部分のみが強調されるときには、〈写真は撮りたいように撮って、見る人は見たいように自由に見ればよい〉というような、現代の写真表現が抱える問題とはおよそ無縁な姿勢を、かつての作者と作品の安定した関係に代わるものとして、祭り上げるに過ぎないものになってしまう危険がそこにはあるのです。