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[現代写真との対話6:〈写真表現の修辞法〉という視点/日本カメラ1995年9月号:146-147]


 20世紀半ばは、写真メディアがもっとも活性化した時代だといえるでしょう。この時代を支えた視点は、現在からみると、誇大とも感じられるような展望を基にしたものにみえるかもしれません。しかし、だからといって、その写真表現がとるにたらないものであったわけではありません。なぜならこの時代には、写真で語る修辞法が、おそらくもっとも複雑に編み上げられていたように思われるからです。

 写真を見る、というとき、私たちはどのようなものを思い浮べるでしょうか。おそらくは、展覧会場あるいは写真集・雑誌などに収められた一枚一枚の写真というイメージではないでしょうか。しかし、写真の機材や感材が発達すると同時に、写真を印刷物として複製する技術が成熟し、写真を見るという経験が社会のすみずみにまで大衆化していく20世紀半ばの写真表現を振り返るとき、現在の私たちがなじんでいるそのようなイメージこそは、もっとも注意しなければならないものかもしれません。
 例えば、フラッシュなしで室内でも撮影可能な小型カメラ、エルマノックスが1924年に売り出され、次いで25年に、35ミリフィルムを使用した小型軽量のライカが発売されたドイツでは、『ベルリナー・インストリールテ・ツァイトゥング』誌や『ミュンヘナー・インストリールテ・プレッセ』誌をはじめとする、20誌近くもの写真週刊誌が、20年代の後半から30年代にかけて発行されるようになります。それらの雑誌は、はじめは一枚ずつの単体の写真を掲載していましたが、30年を前後して、統一した主題を複数の写真で語ろうとする組写真を掲載するように変わっていきました。それまで記事の挿絵的な位置にあった写真が、記事とともに写真それ自身によってさまざまな出来事を語るようになるのです。また、そうしたドイツのグラフ雑誌は、他のヨーロッパ諸国のグラフ雑誌のモデルとされ影響を与えていくようになります。
 ドイツにおけるこのようなフォト・ジャーナリズムの隆盛も、ヒトラーの政権掌握による出版界に対する言論統制から、多くの写真家や編集者が国外逃亡し、中断されることになりますが、その数年後の36年にはアメリカで、その後世界でもっともよく知られるようになるグラフ雑誌『ライフ』が創刊されます。46万部以上刷られた創刊号には、次のような言葉が記されていました。
 「人の暮らしを見る。世界を見る、偉大な出来事を目撃する。貧しい人々の顔を、誇り高き人々の動作を見つめる。見なれないもの――機械や軍隊、大群衆、ジャングルや月の表面の影を見る。人類が成し遂げた業績――絵画や塔や発見を見る。何千マイルも離れたものを見る、壁の後ろや部屋の中に隠されたもの、近づくと危険なものを見る。男たちの愛する女性、そして数多くの子供たち。見る、そして見ることに喜びを見いだす。見て驚く。見て教えられる」。
 このような誌面を実現するために、『ライフ』誌はとても大きな組織を構成していました。ニュース、自然、スポーツ、科学、ファッションといった部門別に分けられた編集部は編集者、調査員によって構成され、写真部長がそれらの編集部と写真家の連絡役を務め、写真家の仕事の計画や割り振りを行いました。また、誌面を作るときには、ページの割り付けをするアート・ディレクターと、記事を決められた語数で書き上げる編集者に写真が送られ、もっとも効果的な誌面が作られるよう配慮されていました。こうして発行されていた『ライフ』誌は、最盛期には860万近い定期購読者を抱えるほどの雑誌に成長していきます。また、『ルック』『ピック』『フォト』といったグラフ雑誌も次々と創刊され、一時期には月に2500万部近いグラフ雑誌が発行されるようになりました。
 こうして、『ライフ』誌を中心とするフォト・ジャーナリズムの隆盛をみてみると、気づくことがいくつかあります。フォト・ジャーナリズムという言葉から現在の私たちは、事実をありのままに報道する写真といったことを想像しがちですが、かならずしもそうではなく、むしろそれは、機材・感材や印刷の技術の発達とともに大衆化していった写真が、写真それ自身と記事とのレイアウトによって語る独特の修辞法を育むことによって、形作られた表現であること。その写真の修辞法は、写真家のみが切り開いたものであるわけではなく、編集者やアート・ディレクターといった存在との、共同の成果であること。そうした諸々の関係性の中で、『ライフ』誌の創刊の言葉にみられるような、写真を見るということが世界を見るということと同じ意味であるような認識が、広く人々に浸透していくこと。
 こういった写真表現の世界をもっとも典型的に示しているのが、55年にニューヨーク近代美術館の写真部長エドワード・スタイケンによって企画された『ファミリー・オブ・マン』展でしょう。画家を志していたスタイケンは、はじめは絵画を模した写真を撮っていましたが、アメリカ近代写真の先駆者アルフレッド・スティーグリッツのギャラリーに協力したり、第一次大戦の時に空軍の写真責任者を務めたことなどがきっかけとなって、写真の機能を生かしたシャープな写真を撮るようになります。そして、写真部長を務めた『ヴォーグ』誌や、『ヴァニティ・フェア』誌などで、ファッションや広告の仕事をするようになった彼は、複雑な照明による革新的な写真で商業写真を席巻します。また、第二次世界大戦では海軍の写真班を組織し、新たな戦争の記録を試みています。
 このように、いわば20世紀半ばの写真メディアの活力を体現した彼が戦後企画した同展は、200万枚の写真から選んだ、68ヵ国の273人の写真家による503枚の写真を用いて、建築家のポール・ルドルフをはじめとする多くのスタッフの協力によって、美術館の一階すべてを使って写真を空間的に展示した壮大な展覧会でした。その序文で、スタイケンはこう語っています。
 「この写真展は、…写真芸術が思想に形態を与え、人間に対して人間を説明するのにきわめて有効な方法であることを証している。それは、人生の日常生活にひそむ普遍的な要素と諸感情を映す一種の鏡として考案された。すなわち、全世界を通じて人間は本質的に単一であるということを映す鏡としてである」。
 ここに読むことができるのは、写す対象をそのまま再現するものとしての写真が、やがて写真に写ったものこそが対象の真の姿だとするような認識を生み出すようになり、さらには、写真を見ることが世界を見ることであり、写真が人間そのものをも物語りうるような修辞法を備えたものになったとするような視点でしょう。このような視点は、写真メディアの現実性や客観性が、テレビという新たなメディアに取って代られていき、また、連載のはじめにも述べたように、よりよい社会を共通の理想として描いてきた近代の世界が、逆にさまざまな社会問題を生み出し、ひとびとがそれぞれの孤独や不幸を実感していく中で、50年代から60年代にかけて急速にリアリティを失っていきます。
 しかし、忘れてはならないのはそうした視点が、フォト・ジャーナリズムのみならず、多かれ少なかれ、ファッション写真や広告写真、芸術写真といった20世紀半ばの写真を貫き、写真表現の修辞法を複雑に編み上げていったということでしょう。もちろん今日では、その視点は古びた誇大なものにみえるかもしれません。けれども、現在の写真表現にしても、そこで生み出された修辞法と無縁であるはずはなく、ある意味ではそれに多くを負っているとさえいえるかもしれないのです。そのことを考えてみるためにも、20世紀半ばの写真を見るときには、一枚一枚の写真というイメージから離れ、写真表現の修辞法を捉え返してみる必要があるように思われるのです。