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[現代写真との対話4:写真の誕生とその初期/日本カメラ1995年7月号:182-183]


 私たちは、現在の写真表現のイメージ――写真や写真家、技術や思考などの関係に、あまりにも慣れ親しんでいます。写真の誕生について考えてみるときも、ついついそのイメージに当てはめて、当時の写真を捉えがちです。しかし、写真の誕生をめぐるときには、逆に、そうした諸々の関係が育まれはじめる時代を思い浮かべるべきではないでしょうか。なぜなら、150余年前に写真が誕生しつつあるときには当然、今私たちが写真や写真家と呼んでいるものや、その技術や思考は存在していなかったのですから。

 数年前に、写真誕生150年ということがずいぶんと話題になりました。それに関係したいろいろな企画が行われたこともあって、現在では、写真に関心を寄せる人たちに、写真の誕生というイメージが、漠然としたものであれ何らかの形で浸透しているようにみえます。
 しかし、いざそのイメージを捉え返してみようとすると、古くて茶色っぽい肖像写真や風景写真が思い浮かぶだけで、なかなかうまく捉えられない感じもします。そこでたとえば、写真史の本をみてみるとします。そこでは、1839年8月19日にフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが発明したダゲレオタイプが発表され、1841年にイギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットがカロタイプを完成させた…、といった出来事や、それにまつわるエピソードを読んだり、あるいは、その発明による写真を見たりすることができるでしょう。けれども、依然として、その発明の意味がどのようなものであったのかは、なかなかうまくつかめないのではないでしょうか。どうしてなのでしょう。
 私たちは、ここ数十年の間に育まれた写真表現のイメージ、つまり写真家や写真、技術や思考といったものの関係に、あまりにも慣れ親しんでいます。しかし、当たりまえのことなのですが、写真が誕生する前には、写真は未だ存在していません。したがって、写真家というものも、写真術をめぐって具体化された技術や思考も、はっきりとは存在していません。また、写真の誕生といわれると、まるで写真に誕生日があるかのように、ある日付を境に生れたことをイメージしがちですが、写真の発明の日付とはいわば便宜的なものにすぎず、じっさいには紆余曲折のすえになされたものなのです。
 くわえて、ある技術の発明とそこから生れるものの関係は、写真に限らず多くの近代技術の発明がそうであるように、その初期ははなはだ不安定なものであり、技術と使い手の成熟にしたがってその関係も成熟してくるということも忘れてはならないでしょう。つまり、写真の誕生を考えてみるには、画期的な発明がある日衝撃的になされた、というイメージで無理に捉えようとせず、さまざまな関心や情熱の関連が写真術を完成させ、それを徐々に成熟させながら写真家や写真、技術や思考の関係が作り出されていったというイメージで捉えたほうが、つかみやすいように思われるのです。
 写真の誕生は19世紀半ばの出来事ですが、それを導くようになる技術ははるか昔にさかのぼることができます。それは、カメラ・オブスキュラと呼ばれる、一方に小さな穴やレンズをもち、反対側に外界の倒立像を作る暗箱の装置です。この光学的原理は古代から知られており、16世紀頃には画家の補助手段として用いられはじめられ、改良が加えられていったといわれています。ようするに、現在からみるならば、人々は古くから像を定着する感材のないカメラを覗きつづけてきたのであり、のちに写真的な像と呼ばれるものを見つづけてきたのです。そして、この像をなんとかしてそのまま定着しようとする、ダゲールやタルボットをはじめとした、多くのひとのさまざまな関心や情熱の関連が成果をあげ技術的に実を結んだとき、それが写真術の誕生なのです。
 こうして生まれた写真術がもたらしたものとは、なんだったのでしょう。まず写真が多くのひとに受け入れられていったのは、肖像写真としてだといわれています。それまで裕福なひとたちだけのものであった肖像画に代わって、新しく経済的に力をつけてきたひとたちに、より安くそして早く手に入れられる社会的ステータスとして、肖像写真が普及していくのです。写真史の本をみていると、このような現象をめぐって語られたこととして「今日を限りに絵画は死んだ」とか、「失敗した才能のない画家たちの避難所」といった言葉がよく引かれています。こういった言葉は、写真の誕生を、写真対絵画というイメージでドラマティックに浮び上らせてくれますが、そのぶん注意して受け取る必要があるように思われます。というのも、しだいに完成度を高めていった写真術は、そうしたイメージにとどまらない大きな影響を、人々の意識や社会の在り方に与えていくからです。
 写真ついて考えるとき、誰もが思いつく特徴があります。写真は撮す対象をそのまま忠実に再現するということです。写真の誕生について考えるときも同様でしょう。しかし、写真がのちに人々や社会に与えていく大きな影響を併せて考えるならば、それと同じくらい、あるいはひょっとしたらそれよりもっと大きな特徴をもっていることに気づきます。それは、写真は定着した像を無数に複製することができるということであり、また定着された像は簡単に持ちはこべるということです。逆にいえば、こうした技術が徐々に成熟したからこそ、写真は撮す対象をそのまま再現するという認識が行き渡ったとさえ、いえるかもしれません。
 このような特徴をそなえた写真は、その成熟とともに、広く活用されていくようになります。動物や人間の連続写真で知られている、エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)の仕事は、そのことを物語ってくれるよい例でしょう。1830年にイギリスに生まれ、アメリカに移住し写真術に出会ったマイブリッジは、60年代位からヨセミテ渓谷などを撮りはじめ、政府の委託によりアメリカ領になったアラスカの調査団に同行し撮影を行ったり、さらに先住民モドック族の戦いや、中央アメリカ、サンフランシスコなども撮っています。また彼は78年に、そうした活動とともに70年代はじめから行っていた動体の連続撮影の実験に成功します。80年代はじめにその成果をヨーロッパで講演し、芸術界の大きな反響をえて、ペンシルヴァニア大学の奨学金で制作、刊行された2万点以上の連続写真を収めた『動物の運動』の予約リストには、当時の有名な芸術家たちの名前が記されているといわれています。
 マイブリッジのこうした多彩な活動には、写真が広がっていく初期の在りようが集約されているように思われます。限られた人しか訪れることのできない地の風景の紹介、調査・開拓・戦争の記録、写真ではじめて固定して見ることができるようになったものの考察といったことへの活用です。これをひとことでいってみるなら、写真は、撮す対象をそのまま忠実に再現するという科学性を軸に、それまで空間的ないしは時間的にけっして見ることができなかった像を、不特定多数の人々に伝え、人々や社会の認識の在り方そのものに大きな変容を染み渡らせていったといえるでしょう。またその変容は、マイブリッジの連続写真に当時の芸術家が深い関心をよせたことからもわかるように、写真対絵画というイメージに収まりきれるものでもなかったのです。  発明家であり、旅行家であり、事業家もあったようなマイブリッジの写真の活動は、今日の写真表現のイメージからすると、写真家としてはあまりに雑多であるようにみえるかもしれません。しかし、彼に限らず、初期の写真家は多かれ少なかれそのような存在だったのです。そして、写真の誕生とその初期をみるときには、写真家や写真、技術や思考といったものの関係が、そうしたなかでこそ育まれていったということを忘れずに考えるということが重要であるように思えるのです。