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[現代写真との対話3:写真史をたどる、その前に/日本カメラ1995年6月号:154-155]


 ある文化について考えようとするとき、もっとも有効な手立てのひとつとして思いつくのは、その歴史をたどってみることでしょう。写真表現にしても、その例外ではないはずです。しかし、いざじっさいに写真史をたどろうとして、さまざまな写真を見れば見るほど、よけいに混乱してくることさえままあるのは、なぜなのでしょうか?どうやら、歴史をさかのぼる前に、写真史に向かう手立てを考える必要がある時代に、私たちはいるようです。

 この10年ほどで、写真表現をとりまく状況は大きく変ってきました。なかでもはっきりといえることは、写真にふれる機会が、以前とは比べものにならないくらい増えたということでしょう。しばらく前までは、写真表現に関心をもったとしても、写真展や写真集、あるいは写真について書かれた本にしてもとても少なく、写真にふれる機会を探すだけで一苦労という具合だったのです。しかし今では、容易に、とまではいえないでしょうが、すこし意識的になりさえすれば、自分の関心に応えてくれる機会を探すことはさほど困難ではないはずです。
 こうして、このところ写真表現は、ギャラリーや美術館、雑誌や写真集など、さまざまな場面で注目されてきています。そうした場面は、写真表現との出会いを充実したものにしてくれる一方で、私たちの感覚を以前とは微妙に違ったものにしているようです。この感覚の変容については、いろいろな観点から考えてみることができるでしょうが、その大きな特徴は、質の違いを見分けるという感覚が徐々に失われ、どのようなものが並んでいてもさほど驚くことがなくなったということではないでしょうか。
 たとえば現在私たちは、ある雑誌をめくっていて、そこに外国の作家と日本の作家の写真が並んでいても、とりたてて比較するでもなく見ることが普通になっています。また、あるテーマに沿って編まれた写真集や写真展を見ていて、そこに戦争写真と静物写真が並んでいても、さらには、19世紀の写真と90年代の写真が並んでいても、いちいち驚いたりはしなくなっています。そこでの感覚は、質の違いを見分けるというよりも、それぞれの写真のニュアンスを楽しむとでもいうべきものになっているといえるでしょう。こうした変容は、いっけんとても好ましいものにもみえます。しかし、他方でこのような変容は、私たちが写真について考えようとするときに出会うジレンマもまた生み出しているように思われるのです。
 ある文化について考えようとするとき、さしあたってのもっとも有効な手立てのひとつとして思いつくのは、その歴史をさかのぼってみることでしょう。しかし、この連載のはじめにも述べたように、表現の価値観そのものを疑うという認識の質をもっている現代の写真表現にとって、過去の写真を振り返ることは、同時に写真史が形作ってきた価値観を捉え返すという問題に密接につながっています。さまざまな写真が並置されるという状況と、その質の違いを見分ける価値観の問題が重なってくると、写真にふれる機会は豊富にあるものの、何をどのように見たらよいのか見当がつかないというジレンマに出会うことになります。
 そうしたジレンマに突き当たると、いきおい〈それぞれの写真には、それぞれの良さがある!〉といった写真の受け取り方がもっともらしく聞こえてきますが、これではまったくそれぞれの写真のさまざまな違いを見きわめる手立てにはなりませんから、ジレンマをさらに膨らますことにしかなりません。写真表現とのさまざまな出会いを、名実ともに充実したものにするためには、どうやらまず、こうしたジレンマそのものについて掘り下げてみる必要がありそうです。
 写真史の本であるにもかかわらず、あるいはそれゆえに、いきなり冒頭から「概説的な写真の歴史を書くにあたってはさまざまな困難がつきまとう」という根本的な問題提起の言葉ではじまる、イアン・ジェフリーというイギリス人が80年代のはじめに書いた『写真の歴史』という本の序章には、写真史をさかのぼるときのいろいろな困難が書かれています。すこしながくなりますが、ここで掘り下げようとしているジレンマについて考える助けになりそうですので、参考になりそうな部分を引いてみましょう。
 「写真史の概説を書くにあたって、さらに困難な状況がある。写真の評価をどこに置くかという問題である。写真史家や批評家は普通それを一枚一枚の写真と考えている。そうすると写真史はまるで絵画史のミニチュアのようになってしまう。しかしあらゆる写真家がこうした写真史家や批評家のように自分の写真をみなしていたというわけではないのだ。写真を文章と並置するために撮ることもあったし、連続写真や組写真として撮ることもあり、こうした場合、多くは写真編集者が写真の配置や割り付けを担当していた。つまり“写真作品”というのは、一枚の写真であることもあれば、一冊の写真集ないしはフォト・エッセイであってもよかった。…また写真は新しい体裁のもと新たな文脈のなかで頻繁に再版され、複製されるのであってみれば、その歴史の始まりまでさかのぼるのはいよいよ困難になるだろう。ずっと陽の当らぬ場所にあった写真が良質かつ鮮明なプリントで紹介されたり、評価されていなかった写真家の写真が、巧みな編集によって刺激的な外観を新たに与えられたりもするのである」。
 写真作品というと一枚一枚の写真を思い浮かべがちだが、必ずしもそうではなく写真作品にはさまざまな形態がある。写真家についてもまた然り。さらにその写真がどのような文脈で扱われているのかにも注意する必要がある。――彼の語っていることをごく簡単にいってみると、このようなことになるようです。何をどのように見たらよいのか分からないというのに、それではますます見当がつかなくなるようにも思えますが、よく考えてみると、ここには写真の歴史をさかのぼってみるときの重要なヒントが含まれているようです。
 たしかに今日では、写真にふれる機会が、国境や時代のへだたりを越えて、以前とは比べものにならないくらい増えています。けれども、写真を見るときに前提にしている写真作品のイメージ、作者についてめぐるときに前提にしている写真家のイメージについては、今の時代に流布している一般的かつ漠然としたイメージを前提にしているように思われます。しかし、写真表現という文化の歴史をさかのぼってみようとするときは、まずこのイメージを見直してみる必要があるようなのです。具体的にどのようにすればよいのか?おそらくそれは、写真の歴史をさかのぼろうとするなら、写真表現について抱いているイメージをあてはめる前に、まず写真作品を支えた枠組みとしての文脈に着目しなければならないということになるでしょう。
 つまり、〈それぞれの写真には、それぞれの良さがある!〉のではなく、それぞれの写真には、それぞれの文脈がある、ということです。多くの人が、写真について考えようとするとき〈写真をよく見る〉ことを勧められ、写真をじっと見てはみたものの、正直いって皆目見当がつかないという体験をしたことがあると思います。しかし、文脈を無視していくら写真を見ても、何も捉えることができないのは無理もないのです。
 文脈の変遷としての写真の歴史を考えてみることは、写真表現の価値観の具体的な移り変わりを捉えることであり、ひいては逆に現代の写真表現の枠組みを捉え返す手立てにもなりそうです。こうしたことを踏まえて、これからしばし写真の歴史をさかのぼってみたいと思います。