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[現代写真との対話2:たとえば「メイプルソープ」について/日本カメラ1995年5月号:148-149]


 現代の写真表現に積極的な興味をもちはじめると、その分どこかでその難しさにも出会い、どのように考えればよいのかわからなくなる、という経験は誰しも突き当ったことのあるものではないでしょうか。そんなとき見出されなければならないのは、〈写真は感じるままに見れば良い〉というような通念を呪文のように唱えることではなく、写真表現のわかりにくさや難しさに向かう態度であるように思われるのです。

 いっけんわかりきっているようにみえることを、あらためて問い返すところ、つまりこれまでに形作られてきた価値観を問題として捉えるところに現代の写真表現があるのだから、それがわかりにくいことは当然のことなのだ。そして、だからこそ、わかりにくさや難しさを、できるだけはっきりと捉え、理解しようとすることこそが重要である。――こういう話を前回しました。  しかし、そのように考えてはみても、具体的にどのような態度で現代写真に向かえばよいのか、そのことからしてけっして容易に結論が出てくることではないことに思い当たります。くわえて、〈写真は感じるままに見れば良い〉とか、〈写真は言葉にならない〉といった、写真表現のどこかしらにずっと染み渡っている通念があることも手伝って、いろいろと考えることが、写真を味わうことにつながるどころか、はじめの率直な感動を損なうことに結び付いてくるような気がしてくることも、ままあることです。
 わかりにくさを問題としてはっきりと捉えるとはじっさいどのようなことなのか、このことを具体的に考える手がかりを探してみるために、今回は、現代写真でもっともよく知られているひとりであると思われる写真家をめぐってみることにしましょう。
 ある日、ふと立ち寄ったギャラリーで、あるいは、ふと捲っていた雑誌で、とても心惹かれる写真に出会ったとしましょう。正方形の白黒の画面の中に、整った構図、豊かな調子と質感で収められたポートレイトやヌードや花。たんに美しいだけでなく、不思議と魅力的なこの写真を撮ったのは誰なのだろう、と作者を確かめてみると、そこにはとても印象的な名前が記されています。
 ロバート・メイプルソープ(Robert Mapplethorpe)。彼の写真をもっと見てみたい、彼について知りたいと思い、彼の写真集や彼がとりあげられた雑誌を少し調べてみると、彼によるほかの多くの作品を目にするだけでなく、次のようなことがすぐわかってくるでしょう。――1946年に生まれ、70年頃にポラロイド・カメラを手にしたことで、セルフ・ポートレイトを中心に写真を本格的に撮りはじめる。70年代半ばに、6x6判の正方形のフォーマットのカメラで、ポートレイトやヌード、SM、同性愛、花などをモチーフに作品作りをはじめ、評価を高める。89年にエイズによってこの世を去る。
 もちろん、こうしたことだけではなく、そこでは、彼の作品の魅力を、こうした経歴とのつながりや時代性、あるいはさまざまな考え方に結び付けて語る文章にも出会うことになるでしょう。――はじめはグラフィック・アートなどを手がけていたこと。かつての恋人は、被写体にもなっているミュージシャンのパティ・スミスであったこと。著名な美術家アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」と呼ばれるスタジオのメンバーたちとも親しかったこと。自身が同性愛者であったこと。――写真に見られる整った構図は古典的なものであること。裸体、肖像、静物という作品の中心的なモチーフそのものが、西洋の古典的な絵画のジャンルでもあること。――自己、愛、性、欲望、死といった概念。
 こうしたなりゆきを経て、誰しも突き当たることがあるのは、作品に心惹かれたから、それについてより深く知ろうとしたのか、作品や作家について深く知っていったから、それにより心惹かれるようになったのか、だんだん区別がつかなくなってくるという経験ではないでしょうか。つまり、メイプルソープの作品に心惹かれるということは、彼自身の経歴や趣向に関係なくそうであるはずなのに、いつの間にか彼の経歴や趣向を背景に作品を見るようになる、ということです。さらに、もう少し考えをめぐらしてみると、作者当人についても同じことが当てはまりそうだ、ということにも突き当たります。彼の作品の数々はまぎれもなく彼の意思によって作られたものであることは確かでしょうが、その意思そのものが出会いや関係性の影響によって形作られてきたものであろうことも、また確かなのです。
 こうして、ある作家や作品について、より深く味わっていこうとすることは、より多くのことを知ることとどうしても切り離せません。〈写真は感じるままに見れば良い〉、そうはいっても、良いも悪いも、人はいつまでも感じたままで見ていることなどできないものです。そして、〈写真は言葉にならない〉といっても、なんの言葉にも関わりをもたずに、写真に触れるという経験など、現実にはどこにもないでしょう。別のいいかたをするなら、感じることはしばしば知ることや考えることと対極にあることのように扱われがちですが、知ることや考えることによってこそ、感じることが形作られているといえるのではないでしょうか。たとえば、メイプルソープの作品にふと偶然に出会い感動したとしても、それは何かほかの関心や興味によって立ち寄ったギャラリーや捲った雑誌から導き出されている経験に違いないものではないでしょうか。
 どうやら現代写真に感じる難しさのおおもとは、このへんにあるようです。これまで当りまえだと思われてきた価値観を改めて疑ってみる、このようにいうと、これまでの価値観に反発することのように受けとられがちですが、そうではありません。それは、自分が感じることや意思といったもっとも確かで信じられるように思われていたことに、いつの間にやら染み込んでいる価値観まで含めて疑い、それがどのようなことによって形作られているのかを捉え返してみることなのです。つまり、メイプルソープの作品に心惹かれるならば、それと同時に、それに心惹かれるのはなぜなのかを考えることが避け難く必要とされてくるということです。
 メイプルソープの作品の中心的なモチーフが、裸体、肖像、静物という西洋の古典的な絵画のジャンルでもあること、そこからは、写真に限らず視覚的な表現がそうしたモチーフをどのように扱い、どのような感覚を形作ってきたかを捉えるという課題が出てきます。それに惹かれたということは、西洋絵画について知らなくてもいつの間にか、そこで形作られてきた感受性を引き継いでいるということでもあるでしょうから。また、彼の作品が同時代のさまざまな表現や人物との交流からの影響にも関係しているらしいこと、ここからは、彼に関係していると思われる当時の表現の動きを捉えてみること、さらには、写真表現がいかにさまざまな表現と関わりをもちながら写真というジャンルを形作っているのかを捉えることが課題になってくるでしょう。そして、彼をめぐって語られる自己、欲望、死というような概念、ここには、ほとんど人がつきることなく向かい合ってきた永遠の謎ともいえるような課題が浮び上ってきます。
 メイプルソープをめぐって、課題という形でいくつかの問題を並べてみましたが、ここからわかることは、なぜだかわからないが心惹かれるということに、「それは〜だからだ」という答えをみつけることはできなくても、わからなさに課題や問題として輪郭を与えることは、〈写真は感じるままに見れば良い〉とか、〈写真は言葉にならない〉といった通念にさえ惑わされなければ、不可能なことではないということです。
 写真表現のわかりにくさや難しさを、できるだけはっきりと捉え理解しようとすること、それはある問題に答えを与えることを目的にすることではありません。そうではなく、それは、あることにこだわるだけでなく、そのこだわりの形ができるだけくっきりと姿を現すような境界に立ち、問題そのものを作り出すことを恐れず、表現に向かっていく態度をもつということなのです。