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[現代写真との対話1:<わかりにくい>のは当然なのです/日本カメラ1995年4月号:178-179]


 数年前に誕生150年を迎えた写真は、さまざまな場で注目されるようになり、今では、とても親しみやすいものになってきているように見えます。しかしその一方で、あらためて意識的に写真表現を見たり考えようとすると、ひとすじなわではいかない難しさを感じることもあるのが、実情ではないでしょうか。この連載では、できるだけいろいろな角度から写真表現を捉えてみることで、写真がどのようにして現在の輪郭を形作ってきているのかを考えていきたいと思っています。

 私たちは、日々を写真に囲まれて過しています。一枚の写真も見ない日はないといってもよいでしょう。写真はあまりに身近なので、かえってその在りようを振り返ることもないくらいに、生活のなかに浸透しているようです。
 またこの10年ほどの間に、表現としての写真にふれる機会も、ずいぶんと増えてきました。ギャラリーや美術館、雑誌や写真集など、さまざまな場で注目されるようになってきた写真表現は、親しみやすく鑑賞し味わうことができるメディアとしてだけではなく、表現したいという意識を持つひとたちが引き付けられるメディアとしても、関心を集めているようです。
 このように、いろいろな意味で私たちになじみやすいところにある写真ですが、ひとたび意識的に見たり撮ったりするようになると、いったい何を手がかりにして考えていったらよいのかわからなくなり、とたんに難しいものに感じられてきたという体験は、おそらく写真に関心を寄せたことのある多くのひとが経ているものではないでしょうか。
 そうした体験は、もしかしたら写真というメディアが持つ特徴によるものなのかも知れません。〈写真はひとり歩きする〉などといわれるように、写真をさまざまなメッセージから切り離して、いわば写真を写真として捉え直してみようとすると、どのような意味にも受け取れるようにも見えるし、逆に、何の意味もないもののようにも見えてくるからです。これは、のちのちゆっくりと考えてみたい、興味深い特徴です。しかし、写真をめぐるときに感じる難しさは、そのような特徴につきるものでしょうか。もう少しこのことを掘り下げてみるために、わからないと感じることがもっとも多いと思われる、現代写真について考えてみましょう。
 現代写真についてふれた本をみてみると、そのはじまりを語るのにかならず登場してくるひとりの写真家がいます。スイスに生れ、のちにニューヨークに渡ったロバート・フランク(Robert Frank)です。戦後アメリカに渡ったフランクは、アメリカ中を中古の自動車で旅して写真を撮り、50年代の末に『アメリカンズ(The Americans)』という写真集を出しました。この写真集は、いま見てみると異和感のない親しみやすい写真に見えますが、当時のひとびとにはとても衝撃的なものだったといわれています。
 『アメリカンズ』に収められた写真は、それまでの写真とまったく違った技法で撮られていました。それまでの写真は、ピントがよく合っていて、整った調子で作られたものが評価されていたのですが、彼は、ブレたりボケたりした写真を平気で使い、全体の調子といえば、粒子が見えるようなざらざらした感じの、とても整ったとはいえないものでした。そして、報道写真が大きな影響力を持っていた当時にあって、いっけんアメリカ紀行のようなタイトルの『アメリカンズ』は、その実、あいまいな日常の断片を寄せ集めた脈絡がないように見える写真で作られていました。さらに重要なことは、そこに収められた写真には、アメリカ社会やそこに住むひとびとの夢や希望を語るようなメッセージがどこにもなく、ひとことでいえばアメリカの影の部分をイメージさせるものだったことでしょう。
 このような点から『アメリカンズ』は、「意図的に悲惨な光景を探し求めた、偏見に満ちたでっちあげだ」などともいわれたようですが、しかし同時に、同時代の表現として大きな共感も集めました。どうしてでしょうか。
 近代の世界は、ごく単純にいえば、よりよい社会を共通の理想として描くことで、矛盾を乗り越えていこうとする力を持ち、さまざまな変革を試みてきた世界だといえるでしょう。もちろん写真表現にしても、そうした力と無縁ではありませんでした。真実の美を極めたり、あるいは、世界をよりより方向へ向かわせるためのメッセージを発するメディアとして、写真もまた捉えられてきたのです。しかし、そうした近代の力が、結果としては逆に、戦争やさまざまな社会問題を生み出し、共通の理想に向かうことができなくなったひとびとが、それぞれの孤独や不幸を実感していく姿が、1960年代には浮き彫りになってきました。共通の理想が失われるということは、前の時代を引き継ぎ、よりよい時代を後に実現しようとする軸が失われるということでもあり、歴史に対する不信感につながります。そして歴史への不信は、今この時代の実感をたよりにしようとする同時代的な力を高めていくでしょう。『アメリカンズ』は、こうした時代性の変化をとてもよく表していた写真集であったように思われます。
 このようにして見るとき、『アメリカンズ』はたんに衝撃的であっただけではなく、より深い問題を示した写真集であったために共感を集め、影響を与えていったことが浮び上ってきます。フランクの写真が体現したこととは、写真表現にとっても、それまでの共通の理想や写真史が形作ってきた価値観を洗い直してみる必要があるということだったのではないでしょうか。
 フランクが体現した転回点がこうしたものであるということ、それは、現代写真がたんにそれまでの写真史の延長にあるものではなく、写真史や表現の価値観そのものを疑うという認識の質の変容のうえにあることを示しています。そして、とりわけ現代写真に感じることが多い難しさとは、この認識の質の変容をなんらかの形で内側に抱え持っているからだといえるでしょう。また、この変容は、今の時代に過去の写真を振り返るときにも関係してくることです。写真史が形作ってきた価値観を疑いながら、過去の写真を振り返ることが、どうしても避けられなくなってきます。
 こうして現代の写真表現は、このように見るべきであるとか、このように撮るべきであるという価値観を問題として捉えるところ、つまり、わかりきったことだとされていたことを、あらためて問い返すところにあるのですから、それがわかりにくいことは、いわば当然のことなのです。そこでは、〈写真は見たいように見ればよい、撮りたいように撮ればよい〉とか〈良い作品は良い〉ということは、写真表現に関わるきっかけにはなるにせよ、俗説として思いきって退けられなければならないでしょう。より積極的にいえば、過去の写真にせよ、今この時代に作られた写真にせよ、それがわかりにくく感じるということは、現代の写真の問題を共有しているということであり、その難しさを意識しはじめるということは、現代の写真表現に関わる条件であるとまでといっても、あながちいいすぎではないように思います。
 とはいえ逆に、〈写真はわからないところが面白い!〉というひとことですませてしまっては、元も子もありません。わかりにくさや難しさを、できるだけはっきりと捉え、理解しようとすることこそが、現代の写真表現に必要とされていることなのですから。次回からそのような試みをはじめて、写真表現の輪郭をすこしでもはっきりとさせていけたら、と考えています。