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[ロバート・フランク『ムーヴィング・アウト』:Exhibition Review/BT・美術手帖1995年5月号:334-335]


 ロバート・フランク(Robert Frank)の回顧展『ムーヴィング・アウト(Moving Out)』が、横浜美術館で開かれた。写真家であるとともに映像作家であるフランクの、初期から近作に至るまでの全貌を紹介する同展は、はじめの開催地であるワシントン・ナショナル・ギャラリーが企画・構成したもので、横浜美術館を経て、チューリッヒ、アムステルダム、ニューヨーク、ロサンゼルスを巡回する予定である。
 フランクの回顧展が、このような規模で開催されることには、たんなる現代作家の回顧展という位相にとどまらない、重要な意味が孕まれているように思われる。
 そのひとつは、いうまでもなく、フランクがたんに現代写真家のひとりであるというだけでなく、写真の現代性のはじまりを告げたといわれる作家であるという点における重要性である。
 1924年スイスに生れ、47年にアメリカに移住しファッション写真を手がけたフランクは、50年代の後半にグッゲンハイム奨学金を得て全米を旅し、58年に写真集『アメリカ人』を出版した。同展にもその一部が展示されているが、ブレたりボケたりしたざらざらした調子で、アメリカの影をイメージさせるような日常の断片を写しとった写真が、説明的ではない配列で構成されたこの写真集の反響について、企画者のひとりであるサラ・グリーノウはカタログで次のようにいっている。
 〈刊行当初は反アメリカ的と侮蔑されながら、1960年代になると同世代の画家、写真家、映画作家、作家をはじめとして、そこに自分たちの価値観の肯定を見出した人びとから熱狂的に歓迎される。フランクの名声がいよいよ高まりを見せた1970年代には、学芸員、批評家、美術史家たちが『アメリカ人』の中から何点かのイメージを抜き出し、これにイコンのような地位を与えた。(フランク自身も『アメリカ人』のなかの写真を個々に展示したり、プリントを売ったりして、「傑作」の創出に手を貸した)〉。
 報道写真に見られたような説明的なメッセージ性、近代写真に見られたよう美的な修辞法を拒み、同時代的なリアリティをよく捉えた『アメリカ人』は、〈ことばに頼らないこの写真集は、頭にではなく心に語りかける。体験を記録、描写、配列、提示するのではなく、体験を誘いだし、産みだす〉(グリーノウ)という意味での、写真の新たな独自性を支えるものとして位置づけられるようになる。
 そして、この回顧展のふたつめの重要性はこの位置づけに関わるものである。60年代を通過して、写真は徐々に美術の文脈に組み入れられていく。それは、一方で諸々の言説的実践による写真表現の形式化として現れ、他方でその形式性を超えるような写真の独自性の主張として現れる。この二つの局面は相反するようにみえるが、じっさいには前者が後者に吊り支えられ、後者が前者を導き出す動力となることで、写真表現の自律性を展開することになる。
 映画やビデオなどの制作を手がけ、再び写真を用いるようになった70年代以後の作品が展示された展覧会の後半部分を、一見して気づくことがある。重ねられた初期の写真にドリルで穴が開けられた『無題』(89年)や、自伝的ビデオ作品である『ムーヴィング・ピクチャーズ』(94年)などに象徴的に見られるように、フランクの作品そのものが回顧的な性格を帯びていることである。このような側面から見るとき、この展覧会は、回顧したものが回顧されるという奇妙な二重性を孕んでいる。
 いかにフランクの作品が言葉を退け、体験を誘うものに見えようとも、彼ほど饒舌に語られてきた作家は、現代の写真表現においてほかに例がない。これは、フランクにまつわる言説の多くは分析的というよりも、共感によって生み出されてきたことの証左である。フランクの後期の作品が、過去に言及しつつ、過去を現在に織り込む努力であるように、この回顧展もまた、フランクにまつわる諸々の言説的実践を現在へと織り込む努力でもあるだろう。そして問題は、この回顧展がなにかしらの共感によってのみ捉えられるとき、フランクの作品がどれほど私的な記憶についての独特なものであろうと、また、そうであればあるほど、同展が孕む二重性は、写真表現の自律性を無時間的な共時性として形成し、その自足性を強化するものとして機能する傾向を持つだろうということである。
 自己を顧みた作品の連鎖としての『ムーヴィング・アウト』は、感動を誘う。だがフランクと彼にまつわる言説的実践、つまり写真表現の今日的な問いに真摯に向かい合おうとするなら、その感動の構造こそがまず吟味されなければならないことを忘れてはならないだろう。