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[語り、運ばれていく……もう一つの"生"/鈴木清写真集『修羅の圏』1994年9月刊・添付テキスト]


●本書における[自伝]という性格は、鈴木清のこれまでの仕事を振り返ること、さらに、振り返ることとは表現にとっていかなることかという二つの問いを浮び上らせるだろう。
●はじめの問いに即して処女作から本書までを振り返るとき、その複雑な展開をここで微細に追うことは困難であるとはいえ、明確に体現されてきた点については端的にいうことができるように思われる。それは、鈴木清が語り続けてきたというそのこと、そして語るという営為の中により深く自己を向けていったことである。
●写真表現にとって語るとはどのようなことなのだろうか。それはいっけん、考えるまでもないことのようでもある。写真はただそこに在るというだけで、語ることを誘っているようにみえるのだから。しかしそのように捉えることは結局のところ、写真は何も語らず、沈黙し見つめつづけることを求め、つねに語ることから逃れていくと捉えることと変わらないだろう。そこでの写真の位置は、まさにそこに在るということにつきるもの、いいかえれば、自己と語るという営為の隔たりを吊り支えるものにほかならない。こうした位置づけが、写真の共時的地平を形成してきたとするなら、その中で展開されてきたであろう鈴木清の語り続けるという営為は二重化されたもの、つまり、一方で沈黙しつづける写真を自己にとっての語る契機とするとともに、他方で語る技法を自己の内部で育むことが二重化された展開として捉える必要があるだろう。写真集におけるデザイン・ワーク、写真展におけるインスタレーションといった技法の展開は、語る営為の中により深く自己を向けていったことの具体的な証左としてみることができるが、何よりもまず忘れてはならないのは、それらが語る契機を形作るものとして自己の内部で不可避的に見出されたものであることである。
●そしてこのように考えるときはじめて、二つ目の問いが具体性をもって浮び上ってくる。写真が自己と語ることの隔たりを吊り支えているとき、写真は自己と語ることを同時に映し出す無時間的な鏡面と化すだろう。そこでは、語ることが時間を空間化し自己を鏡面に映し出すことであり、自己を鏡面に映し出すことが語ることそのものであるようにみえるが故に、人は前方に向かい鏡面に自己と語ることを映し出すことが、あたかも振り返ること、遡ることであるようにたやすく取り違える。しかしそこに横たわっているのは、このような共時的地平において振り返ることの根源的不可能性である。
●では、この[自伝]において写真によって遡られている生とはどのようなものなのだろうか。写真を自己にとっての語る契機とすることが、語り続けるというそのことこそが自己そして写真を可視的なものにするという、共時的地平の構図からすれば倒錯した軌跡を描くように、おそらくは本書において[自伝]という性格がしめる位相も、従来的な意味からすれば倒錯したものであるに違いない。ここで展開されているのは、生を写真によって遡り語ることではなく、語るという営為の中で辛うじて垣間みえる共時的地平における振り返ることの根源的不可能性を肯定しつつ、写真を自己にとっての語る契機とする技法こそが生を生たらしめるという生の虚構性を[自伝]と名付けることにほかなるまい。したがって本書が要求しているのは、沈黙の中で見つめ、写真に吊り支えられた自己と語ることの位置を一個の生として理解ないしは共感することではなく、語るという営為の中で見出されること、語るというそのことが生み出す時間性によって生きられる自己を、共時的地平の空間に潜む深い隔たりの中で、けっして共有しえないものとして共有することであるように思われる。