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[日本の写真論を読む12:伊藤俊治『写真都市』2―写真の新しい見方を開示する/日本カメラ1994年12月号:140]


 「都市の内側に閉じこもり外に働きかけることの無力さを自覚したうずくまる人をウインドウの内部で捉えたリー・フリードレンダーの『ニューヨーク一九六四』のように、朝の陽光を写す時でさえも車椅子のうなだれた人を画面の片隅に配置し狂気の匂いが詰まった開放感をあふれさせるゲーリー・ウィノグラントの『ロスアンゼルス一九六九』のように、…(中略)…ダーク・ボックスとしての都市に幽閉され精神まで暗箱化された人間たちは、そのカプセルのなかで生の空間を矮小化し、底へ沈み、頽廃に淀む。その時、写真空間は、我々の空間概念へ、都市の空間概念に直結するメタファーとなる」。
 このように伊藤俊治の『写真都市』においては、都市あるいは写真や人間の全体像はディテイルへと解体され、都市・写真・人間といった項目は、互いが互いに類似し合う隠喩として捉え返される。こうして全体像を否定し、結果を切断することから思考することの有効性とはどのようなところにあるのだろうか。
 写真を見るという直接的かつ一義的な視覚的経験は、写真を語るという言語的経験と、かならずしも重なり合うわけではない。60年代から70年代にかけての写真批評は、表現を分析的に突き詰めようとすればするほど、規範の解体の不可能性を導き出してしまうという逆説を露にした。言い換えれば、そこで露になったのは、視覚的経験と言語的経験の隔たりである。このことは、70年代から80年代にかけて、写真をどのように語ろうとも、写真の視覚的位相は非言語的経験を孕みつつ自律的に展開し、分析を拒むという実感を形成し、今日に至っているといってよいだろう。
 伊藤にみられる、隠喩としての場のうえで写真を語る試みは、たんなる言い換えのレトリックにとどまらず、そうした80年代的な実感に応えつつ、写真の新しい見方を切り開く。隠喩としての場において開示されるのは、言語によって媒介されながら、かつ同時に、写真を見るときにつきまとう非言語的経験をえる可能性である。言語のうえでの不条理ないしは矛盾や逆説は、隠喩としての場で開示される非言語的経験においては、矛盾でも逆説でもありえない。隠喩としての場はむしろそうした不条理を積極的に取り込みつつ、互いに離れた経験の領域を、一つの啓発的で図像的なイメージに、効果的かつ瞬間的に融合させる。
 「…深い暗箱となってしまってからの都市の内壁には様々な都市生活の裁断面が投影され、写真はその混沌とした様相を有機的イメージとして集合させてきた。写真によって、写真のあらわれによって、我々は都市のなかの我々自身の精神や感受性の本質的な構造を理解するヒントをつかむことができる。そこでは人間←→写真←→都市という回路をめぐる環はこみいった往復運動をくりかえし、その行跡の背後に『都市』という不可解で非条理な、全体像をもちえなくなってしまった捉え難い流動体の影をあらわす。…写真とは、都市がひとつのメディアになった時、都市が例えばパノラマ館内でのようにひとつの『都市(イメージ)』になった時、浮上してきた、そのために用意された新しい意識装置だったのである」。
 隠喩の場としての『写真都市』を貫くマニファスト的語調は、視覚的経験と言語的経験の隔たりを、そして都市・写真・人間といった項目を瞬く間に融合させ、社会的・時代的文脈から切り離された、臨場感溢れる共時的世界のイメージへと昇華させる。しかし、ここで注意しなければならないのは、隠喩としての場における非言語的経験が、ほかならぬ言語によってのみ開示されるように、『写真都市』に浮び上る共時的世界のイメージもまた、都市・写真・人間といった項目についての語りの効果によってもたらされたものであることである。もしこのことを忘れるならば、はじめの引用に続いて伊藤が語る次のような一文は、思考や考察という位相を超えて、ただちに極度に抽象的かつ楽天的な、いわばヴィジョンなきユートピアのイメージに転化してしまうだろう。
 「しかし、写真が神秘をひらめかせ、我々にとって啓示となりうるのは、その暗箱を這い、都市の内壁をたどり、意識の暗箱をよじのぼって、絶えず明るく新鮮な外界へのびようとする意志を見せた時である。偽りのあふれた外界ではなく、真の痛切な外界へである」。
 イメージの一義性の世界に踏み込み、積極的に非言語的経験を語ることの内に取り込んでいこうとする伊藤の果敢な試みは、80年代の思考を体現すると同時に、写真についての思考の新たな出発を予見させるに充分なものであろう。そして、その試みを踏まえた思考とは、おそらく70年代の思考の不可能性に沿うものでもなければ、80年代の思考の可能性に沿うものでもあるまい。今、問われるとすれば、70年代の思考を可能性の内に見出し、80年代の思考を不可能性の内に見出すことに、いかに伊藤の試みを活かしていくのかということにほかなるまい。この意味で『写真都市』は、写真表現の今日的状況、ひいては今日性ということそのものを考えるのに、避けては通れないテクストとして私たちの前にある。

*引用はすべて『写真都市』(増補新装版・トレヴィル[初版・冬樹社])より