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[日本の写真論を読む11:伊藤俊治『写真都市』1―共時的写真空間への思考/日本カメラ1994年11月号:144]


 「写真は都市のメディアである。写真が都市を挑発し、拡散させ、生成し、それにつれて都市が写真の意味や機能を転換させていった。都市と自然という二分法があるのではなく、都市と人間という区分けがあるのではなく、あるのは都市の感受性を背負った『何か(イメージ)』であり、都市の無意識に浸透された『我々(メディア)』である」。
 一九八四年に出版された伊藤俊治による『写真都市』を貫くのは、このようなマニフェストにも似た語調である。だが、そうした語調にもかかわらず、そこにはかつての写真批評にみられたような、かくあるべきという指針や方向性といったものが示されることがない。
 体制を批判することで新たな価値観を見出すことが大きな意味をもっている時代においては、しばしば変化や変革を唱える思考の在り方が望まれていた。60年代から70年代にかけての写真批評は、あきらかにこうした思考を示そうとした時代になされたものだといえるだろう。しかし、そうした時代においてすら、そこには70年代への兆候が孕まれていたように思われる。それは、批評が変革を欲するあまり、写真表現のありようを分析的に突き詰めようとすればするほど、規範の解体の不可能性のありかのみを導いてしまうという逆説の内に刻まれている。そしておそらく70年代とは、分析することが結果として悲観的な展望を招かざるをえないという奇妙なねじれに直面した時代であった。
 こういった写真批評の根底的な行き詰まりに対して、伊藤にみられるような80年代の思考は、出発点そのものを何かに向けて出発するのではなく、結果を切断することから開始することに可能性を見出そうとする。そこでは、分類や分節などによって現状を分析するのではなく、変化や改革などを意識する以前の感受性や無意識を基底として思考することが試みられることになるだろう。
 「マクロとミクロをつなぎあわせ、初めと終わりを同時に記載する暗箱に封じこめられた多彩な外界こそ写真の原理的な形態であった。そしてこの『暗箱』のなかでは、外界も、内界もさらなる暗箱のイメージで構造化されてしまう。…都市→写真→人間は、『暗箱』という構造的な類似を、写真の発明以降持つことになる」。
 このように伊藤が語るとき、そこに見出されているのは、都市と写真と人間とを結ぶ具体的な制度や規範ではなく、類似性を媒介にしたより初源なそれらの連関であり、その連関を機軸にしつつ隠喩として写真を語る場である。それは、写真表現の分析をいったん留保しながら、同時に、写真表現の可能性へと再び立ち戻ろうとする欲求を確保することが可能となる場にほかならない。こうした場において伊藤は、都市で撮られた写真を都市を読み解くテキストとして捉えるのはもちろん、都市のイメージ自体を写真そのものをも読み解くテキストとして機能させることを試み、その手がかりを都市のディテイルへと向かわせる。
 「群衆、壁、河岸、駅舎、瓦礫、格子、広場、路地、遊歩道、地下道、劇場、公園、窓、車、門、看板……そうした都市のディテイルが比類のない言葉を写真に託していた」という視点のもとで、ウィジー、アボット、ルイス・ハイン、エバンス、ブラッサイ、マン・レイ、レンガー・パッチュ、ファイニンガーらの写真は「写真家は世界をイメージとして捉え、都市を官能や感情のつまった風景として発見する暗箱の散歩者となった」という世界に再び見出され、ロバート・フランク、ウイリアム・クライン、ダイアン・アーバス、ブルース・デヴィットソンらの写真は「“暗箱”というメタファーによりエクステリアがインテリアになってしまう二重空間の都市を写真家は様々に彷徨うことになる」といった位置づけに捉え直される。写真を写真家の全体像や時代の文脈から切り離し、断片へと解体していくこうした捉え返しは、それまであまり気づかれることのなかった、共時的に写真を見ることの空間を導き出すことになる。と同時に、そこではすべての写真が隠喩としてのパノラマやジオラマのように風景化されることになるだろう。
 「閉じられた空間のなかで都市を見る−−すると都市は今までの都市からゆっくりと奇妙な形で剥離し、それまでの意識のなかでの都市ではありえなくなり、まったく異なったあらわれ方をして見る者のまわりに特殊な空気を巻き起こしていた。…すべてが永遠に接続されてしまったような無限感がパノラマ館のなかで生まれ、最も純粋な写真の時間とでもいいうるような感覚の無時間的な原型が導きだされる」。
 『写真都市』は、ディテイルへの関心を深めることによって、全体像や文脈を超えた共時性における、写真表現の感受性や無意識の新たな可能性を切り開こうとする。それゆえ同書はまた、80年代の写真表現の無時間的な同時代性をもっとも敏感に浮び上らせているといえるだろう。

*引用はすべて『写真都市』(増補新装版・トレヴィル[初版・冬樹社])より