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[日本の写真論を読む9:多木浩二『眼の隠喩』1―歴史の無意識をめぐる考察/日本カメラ1994年9月号:126]


 60年代の終りから70年代の初めにかけて、写真表現の制度自体を問題化した「プロヴォーク」の同人の中心を、中平卓馬とともに形作っていた多木浩二は、80年代の半ばに自身の態度を次のように述べている。
 「芸術としての写真の批評とは無関係に写真を論じることができる。私自身はこの十年間はそのような視野のなかでしか写真を論じてこなかったし、今後もますますその傾向を強めた方向でしか考えない。私の場合は写真の批評ではないのである。もちろんその文脈でさえ、ある『作品』について語り、ある『作家』について語ることがある。それはそれらの『作品』に思考を挑発されることもあれば、それらの『作家』の活動に人間的興味を唆られることもあるからであるが、そのときでも私は『作品』を批評して位置づけたり、『作家』と読者を媒介しようとしているのではないし、写真家に語りかけているのでもない」(「いまなぜ写真について書くか」、『写真装置』#12所収)。
 80年代初頭に出された『眼の隠喩』では、多木のこのような態度がすでに明確に貫かれている。同書で展開されるのは、写真だけではなく版画、絵画、建築などをめぐった論考である。だが従来のように作品や作家の内在性が論じられるわけではない。そうではなく、そこで語られるのは、「まなざしを介した人間の世界へのあらわれ方の様態」である。近代を彩る諸々の制度は、対象と自己との分離を前提として成立してきた。多木が批評の直接の対象ではないと強調する「作品」や「作家」といったものもまた、その前提なしでは存在しえないものだろう。多木が同書でつねに視線を問題にするとき浮び上るのは、そのような前提が、けっして先験的でも恒常的なものでもありえない、きわめて不安定なものであることである。例えば彼は、十九世紀後半のアメリカ西部を撮った写真家についてこう語っている。
 「おそらくティモシー・H・オサリヴァンの写真では、こうした絵画的修辞をつきぬける暴力的な視線、外側にある視線があらわれそうになっていた。…自然の巨大さ、人間を小さな存在に縮めてしまうようなものが写真にあらわれてきた。これが写真が発見した『風景』、これまでの絵画の視線にはあらわれてこなかった自然なのである。…それは科学的な視線だったのであろうか。それとも、写真だけが思いがけず見出した世界だったのだろうか。オサリヴァンは破砕された視線と、それを文化にかえてしまう視線との中間にあった。それが写真が占める最良の位置、あるいは写真がわれわれに挑発的でありうる両義的な位相の発見ではなかったろうか」。
 このように多木の考察において、明確な距離を置いて対象を意識する自己はいささかも自明のものではない。むしろ、対象や自己あるいは意識といったものは、揺らぎつつ相関的に作り出される両者の距離の産物として捉えられるものである。「人びとは、文化的、政治的、経済的などの影響のもとに、ある心理的な距離感を抱くわけであり、私が視線とよぶものはこうした多様な要因を含んである認識をうみだす、もはや視覚をこえた心的な働きをさしている。それは同時に私たち自身が、なんらかの表象を介してこの世界に現象する仕方、つまり生存の様式にほかならないのである」。このような視線の働きの総体として写真が捉えられるとき、そこには自己や意識を超えた歴史の無意識というべきものが表象してくることになる。
多木において、こうした歴史の無意識に対する考察は、自明化されたものに潜在する無意識的なイデオロギーを批判することなしにははじまらない。なぜならイデオロギーは、時代の局所性のなかではじめて成立するものだからである。「まなざしの探索は、もともとはまなざしの織りあげたテキストを再び読みほどくことにほかならない。そのテキストとして選びだしたものは、まことに雑多なもの、ときにはとるに足らないものに見えるかもしれない。しかしある時代の抱くまなざしやその崩壊は、むしろこうした無名のうちにつくられ、芸術史や思想史の主題になりにくいものにこそ刻まれているのではないか」。多木のこのような歴史の無意識へのアプローチは、イデオロギーが主体的な選択から成立するものではなく、むしろ私たちが無意識でいればいるほどイデオロギー的な存在となることを物語っている。
 こうした視座によって書かれた『眼の隠喩』は、作品や作家について直接に語らないだけではなく、作品や作家を直接の対象として語ることの不可能性をも示している。なぜならそれらもまた、時代のイデオロギーの効果の表象にほかならないからである。このような多木の認識論的転回は、それが作品や作家の内在性を扱わないがゆえに、逆に80年代の写真表現の無意識に大きな影響を与えることになるだろう。

*注記なき引用はすべて『眼の隠喩』(青土社)より