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[日本の写真論を読む8:中平卓馬「なぜ、植物図鑑」か2―自己言及性の極限へ/日本カメラ1994年8月号:136]


 「一度シャッターを切ること、それですべては終わる」。このように締め括られている「なぜ、植物図鑑か」で中平卓馬がいわんとしたことは、「イメージを捨て、あるがままの世界に向き合うこと」という、彼自身の写真行為のマニフェストとしての響きを伴った言葉に集約されているといってよいだろう。では、中平が捨てなければならなかったイメージとは、いったいいかなるものだったのだろうか。
 私による世界の人間化・情緒化、私から発し一方的に世界へ到達するもの、作家があらかじめもつ世界はこうであるという像の世界への逆投影、というように中平はイメージについて語る。彼が語るイメージなるものを端的にいうなら、作品の成立経過の中で作家の意識を通過し、見る者に働きかける作用のことであり、したがって、作家の経験的世界に対して同型に対応する射影的なものであると捉えることができるだろう。こうした意味でのイメージを否定すること、それは彼自身の写真行為のマニフェストであると同時に、作品を作家の個人的表出や思想に還元する構図に位置づけてきた、それまでの批評的言説の枠組みへの根底的な批判にほかなるまい。
 「われわれの眼は眼窩の内側にひきつけられ、反転していた。実際のところ、ここでは世界がどうなっていようとも、どう変わりつつあろうとも、人間が、さらに個人としての作家がいかなる像をもっているかだけが問題のすべてであったし、芸術作品を前にして芸術の鑑賞者が為すべきことはたった一つ、その作品を通して当の芸術家がどのようなイメージをそこに秘匿したか、そのことを詮索し、理解すればそれで良かったのである。…だがいま、まさしく世界は作家の、人間の像、観念を裏切り、それを超越したものとして立ち現れてきているのだ。作家が、芸術家が世界の中心である、あるいは世界は私であるといった近代の観念は崩壊しはじめたのだ。そしてそこから必然的に作品を芸術家がもつイメージの表出と考える芸術観もまた突き崩されざるを得ないのは当然のことである」。
 これに重ねて、「そうではなく世界は常に私のイメージの向う側に、世界は世界として立ち現れる、その無限の〈出会い〉のプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならないだろう」、と中平はいう。ここで考えてみなければならないのは、私のイメージの向う側に立ち現れる世界とはどのようなものなのかということだろう。広義のイメージとは、たんなる心的な像にとどまるものではなく、世界と関わり、世界を構成する全体的な性格を持つ。それゆえ、世界とはイメージを不可避的に含み持ち、イメージによって構造化されているものである。彼のいう、あるがままの世界とは超越的観点から見出される一つのユートピアではある。しかし現実には、イメージの作用を捨て去るならば、あるがままの世界も消滅してしまうだろう。作家という個人をとおして自立する作品を彼はイメージと捉えるが、逆にいえば、作家も作品も、またイメージの向う側に立ち現れる世界も、イメージが形成される過程の産物にほかならない。つまり、「無限の〈出会い〉のプロセス」という過程がある限り、誰も世界のイメージ化を免れることができないばかりか、イメージの作用がなければ出会いそのものがありえないのである。
 作品を作家の個人的表出や思想に還元する構図が自然化されている限り、作品は何らかの形で世界と同型に対応し、世界はいっけんありのままに再現されているかのように見える。だがひとたびこの自明性が疑われはじめるならば、世界を再現しようとする表現の努力そのものが、世界を彩っていることが露になるだろう。ありのままの世界に出会おうとする私の努力そのものがそれを妨げるというこの矛盾によって、作家という個人はこのとき、表現の構図に従属しているだけではなく、表現の構図を生産する二重化された存在であることに直面することになる。このような場面において、作家という個人は、自らの表現の構図を問いつつ表現するという自己言及的な営為を不可避的に要請されることになるだろう。中平が「イメージを捨て、あるがままの世界に向き合うこと」という背理を体現することによって露にしたのは、「一度シャッターを切ること、それですべては終わる」という言葉に示されるような、こうした表現の自己言及性の極限にほかなるまい。
 80年代に入って、こうして中平が体現した写真表現の自己言及性は、一方であたかも個人的な意志によって逃れ得る呪縛として捉えられ、他方で作品や批評の経験的世界を保障する口実へと擦り替えられていく。だが、それをいかにロマンティックに彩ろうとも、中平が示した近代の表現における自己言及性とは、表現における選択の問題ではなく、誰一人として免れることのできない条件として現代写真に位置していることだけは忘れてはなるまい。

*引用はすべて「なぜ、植物図鑑か」(『なぜ、植物図鑑か』晶文社・所収)より