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[日本の写真論を読む5:重森弘淹『写真芸術論』1―写真におけるリアリティを問う/日本カメラ1994年5月号:136]


 「キャパやブレッソンには、現実の目撃者、歴史の告発者としての矜持があった。…かれらはかれらの主体的な意図と使命感のもとに、歴史をカメラによって裁断してきたのである。…今日の写真家にそうした使命感がまったく地を払ったとはいえない。しかし、かれらがいかに使命感に燃えたっても、また使命感をいっそう前面に押したてた記録を提供しても、むしろそのゆえにこそ、歴史を心情的にしかとらえることのできない時代になっているといえるだろう。…写真家はなまの歴史に直面しながら、もはや自分を歴史の目撃者ないしは告発者として自覚することはないだろう」。
 このように時代を捉える重森弘淹の『写真芸術論』は、テレビという新しい映像メディアが一気に大衆化するといった要因によって、写真表現がその役割と独自性を問い直すことが不可避的に要請された時代、1960年代に書かれている。ある時代には、その時代の様々な写真家たちの思考がほとんど無意識的に前提にしている、基本的仮定とでもいうべきものが存在している。『写真芸術論』が「写真表現とリアリティ」という章で結ばれているように、重森はこの時代に埋め込まれた思考の在りようを、写真におけるリアリティという視座から捉え直そうとしたといえるだろう。
 一般的にリアリズムとは、観念的な思考に対立して現実を重視する立場のことである。しかし、こうした立場におけるリアリズムという概念は、ほとんど焦点をもちえないものとなる。表現が現実と完全に一致するとすれば、それは現実と同一のものになり、そもそもそれは表現ではなくなる。にもかかわらず、そのような表現と現実との機械論的関係としてのリアリズムが価値を担うとすれば、それが一定の政治性の中に合理化され、透明化されているからである。このような場合、リアリズムとはその名のもとに党派的な方針に奉仕し従属する装置に還元されることになるだろう。土門拳の「レンズの前にある物体をそのままストレートに写す以上はリアリズム」という発言に対し、「対象をそのままストレートに写すことが、どうしてリアリズムであるのか。いったい『そのまま』とは、なににおいて『そのまま』なのか」と問う重森は、次のように述べている。
 「これまでの写真のリアリズムの問題は、もっぱら題材や、テーマの解釈の方法に終始して、映像の問題を避けてきた点があった。というより、現にそうである。写真のリアリズムが、いわゆる社会的テーマに集中し、そして社会的テーマをとりあげることによって、リアリズム写真だとする題材主義が現にある。だから、デモや政治的現象をテーマとすれば、それで現実を発展的側面においてとらえたとする素朴な信念がまだ拭われていない。写真のリアリズムも映像を表現の素材とする限りにおいて、『映像とはなにか』を抜きにとらえることができない」。
 「写真がたしかに、リアリズム的な芸術だということは論をまたないが」としたうえで重森はいう、「写真のリアリズムの問題は、まずなによりも、作者主体と対象現実との関係のうちにあるし、その関係の写真的方法による独自の表現方法のうちにもとめられるべきものであることは、いうまでもない」。このような観点からみるとき、ほかならぬ土門の写真こそが重森の考えを例証するものになることになるだろう。「土門芸術の質の高さは、土門拳の秀れた対象の解釈と、その解釈にもとづいた逞しい表現に認めることができる。しかもそれはきわめて個性的な、独断の美学に裏づけされているのである。高度に主観的なリアリティは、その訴求力の強さにおいて、客観的な説得力を帯びているのである」。
 ここで問題になっているのは、そもそもリアリティとは何であるのかということだろう。「写真はレンズの機能によって、対象をストレートに再現しうる強力な武器であり、それが写真のリアリティを規定する重要な要素である」。しかし、「そのことを強調しすぎるとレンズの物神化に陥る危険性がある」。ここでいわれるレンズの物神化とは、いいかえれば、写真家が現実の目撃者・歴史の告発者であった時代のイデオロギーが与える効果としての、現実のリアリティと写真のリアリティの同一視ないしは混同という経験であろう。このような視座に対して重森は、写真のリアリティにおける問いを、「映像化された対象が現実の対象そのものにどれほど類似しているかどうか」という場面から、「むしろどれだけ類似のイメージを越えているかどうか」という場面へと変更する。これは、リアリティを現実との一義的対応関係にではなく、私たちの観念あるいは意識において見出されるものとして捉えようとする転回にほかなるまい。ゆえに重森は、写真のリアリズムを「写真をとおしての現実の変革の問題であるとともに、写真そのものの変革を課題にしなければならぬ」ものと規定し、写真表現の座標そのものを問いの爼上にのせていくのである。