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[日本の写真論を読む3:名取洋之助「写真の読みかた」1―伝達システムへの視座/日本カメラ1994年3月号:136]


 「私の中学は慶応義塾の普通部でした。私はいつも仮及第で進級していた成績劣等、学校札つきの不良少年でした。…四学年を終えても大学予科に入れず、五学年に廻される。…両親もほとほと手を焼いたようです。そこで、いっそ外国にでもやってみたら、外国帰りを珍重する日本のことだから、なんとか使いものになってくれるだろう、というわけで、はるばるドイツ留学ということになりました」。
 1910年、三田閥の実業家の父と、同じ三田閥の大物実業家の娘である母の三男として生れた名取洋之助は、自分の少年時代をこのように回想している。28年に渡独後、ミュンヘンの美術工芸学校で商業美術やグラフィック・デザインを学び、手織物工場のデザイナーとして働いていた彼は、写真週刊誌でレイアウトマンをしている写真家と知り合い、写真に興味を寄せるようになった。この30年代前後のドイツは、次々と生み出される高性能小型カメラの速写性や機動性を生かした写真を用いて、組写真などの新しいフォト・ルポルタージュの形式の下に20誌近くもの写真週刊誌が発行され、隆盛するフォト・ジャーナリズムの時代の最中にあった。ロンドンから訪ねてきた兄からライカを手に入れた名取は、妻エルナ・メクレンブルグと共に友人から暗室作業を習い、生計の手段と生涯の仕事としてフォト・ジャーナリストを目指すようになる。
 それから写真家としてはじめて仕事をえた逸話は有名であろう。博物館の大火災を写しエルナに新聞社に持ち込ませたが断られ、その帰り道に彼女が撮ったという焼跡から作品を掘り出す工芸家たちの写真が一つのテーマになると感じた名取は、その写真を再び新聞社に持ち込んだところ、週刊グラフ誌に掲載され原稿料をえた。これが機縁でグラフ誌の協力写真家となり、さらにそこでの仕事が評価され、ドイツ最大の新聞雑誌出版社の契約写真家となる。その後、満州事変によって注目される日本の取材を命じられ32年に一時帰国し成果をあげるが、翌年、満州取材中にナチスの外国人ジャーナリスト排斥により日本に戻ることになった。
 帰国後、「生きた現代の日本を、新しい写真で外国に知らせる仕事を組織的にやってみよう」と考えた名取は、写真雑誌『光画』で活躍していた評論家・伊奈信男、写真家・木村伊兵衛、デザイナー・原弘らを同人に「日本工房(第一次)」を設立する。「当時は、第一次世界大戦後の混乱期に誕生した表現主義への反動としての、ノイエ・ザハリヒカイトの運動が、ドイツのバウハウス(工芸学校)を中心に、世界中に拡がりつつある時代で、同人になった人々は、この運動に深い関心を寄せていたので、私がドイツから持ち帰った報道写真の知識と、図案、工芸、写真を包括したモダンアートの思想を中心に、なにか実際的な運動をやってみようということになったのです」。こうして一個の写真家であることを越えていった彼は、出版プロデューサーや写真ディレクターとして、「日本工房(第二次)」や「国際報道工芸」を組織し、戦後は『週刊サンニュース』や『岩波写真文庫』を編集するようになる。このような経験を織り込んで書かれた『写真の読みかた』の「はじめに」で、名取は自身の視座を次のように述べている。
 「学術、産業、娯楽などの面でも、写真は近代文明の強力な武器となっています。まさに写真は二〇世紀に生きる人間のなかに溶けこんでしまっているといっても、過言ではありません。…写真は文字のかわりになるほど、すばらしい能力を持っています。もちろん、文字を書くほどかんたんでもないし、また、抽象的な思想を表現することは困難ですが、ほんのちょっと説明さえつければ、写真の弱点も救われますし、読みかたも易しくなり、万国万人に共通して、文字以上の働きをします」。
 多岐に渡る仕事の中で、つねに名取が「芸術写真」なるものに反発を示し、また、強引に周囲の人々を使っていったことはよく知られている。伊奈が「『芸術写真』と絶縁せよ」と述べることで、写真家の主体性に近代的規定を与えたとすれば、名取の「芸術写真」の拒絶は、その逆の方位から向けられたものである。ドイツ近代の合理主義とフォト・ジャーナリズムの現実を体験した彼にとって、近代的な写真とはなによりもまず印刷物として大量複製され、大衆に見られることを条件として機能するものであり、そのような伝達の目的を持たない「芸術写真」は、その根底において写真表現の意義を欠いたものにほかならなかった。それゆえ彼が様々な場面でもっとも重視したのは、組織化によって近代的な制作と受容のシステムを写真表現に実現することだったのである。『写真の読みかた』でも繰り返し主張される、写真をコミュニケーションを形成する一つのシステムとして捉えるこのような視座は、名取の仕事の総体を規定するものでもある。

*引用はすべて『写真の読みかた』岩波新書より