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[イメージに対する欲望の中の陥穽:「『うつすこと』と『見ること』―意識拡大装置」/アサヒグラフ1994年10月21日号:?]


 埼玉県立近代美術館で、人間のものの見方の変化や感覚の変容をテーマに、絵画や写真そして様々な映像メディアなどによる作品を編んだ展覧会、『「うつすこと」と「見ること」−−意識拡大装置−−』が開かれた。
 展覧会は「知覚の変容:雲の流れに」「像の出現:粒子とかたち」「存在の刻印:奪われた影」「時の軌跡:光源へ」「記憶の連鎖:眼を閉じて」の五つの部によって構成されていた。表題からもわかるように、各部を構成するのは、歴史の展開に沿った分類や、表現メディアの違いなどによる分類ではない。例えば、映像の物質的基盤を問題に据えた「像の出現:粒子とかたち」では、後期印象派のジョルジュ・スーラ、新興写真の野島康三、写真を用いる現代作家の小山穂太郎の作品などが扱われ、また、カメラ・モデルによらないイメージ形成に着目した「存在の刻印:奪われた影」では、カロタイプを発明した黎明期の写真家フォックス・タルボットのフォトグラム、シュールレアリスムの作家マックス・エルンストのフロッタージュ、写真を特殊なプリント法で麻紙に焼き付ける現代作家の秋岡美帆の作品などが扱われる。このように、各部を形作っているのは、時代や表現メディアを横断してみられる視点や技法の類似性による枠組みである。こうした枠組みの必要性について、企画者は次のように述べている。
 「…『うつすこと』と『見ること』に対する欲望のあらわれは、いくつも挙げることができるだろう。ただ、それは直線的な進歩発展として記述できるような問題ではない。現代という視点から歴史を遡りつつ、イメージのリアリティの強度が感じられる事象をひとつひとつみつけていくこと。そして、それらの点を結ぶいくつかの線をひいてみること。20世紀末の現在において、『視覚化=眼に見えるようにすること』の本質的な問題へと切り込んでいく手がかりは、そこに隠されているはずだ」。
 「人間は、現実の世界を見ることとはちがう視覚の世界に対する憧れを持っている」。逆説的な言い方をするならこれは、人間は、ちがう視覚の世界に対する憧れを持つことによって、現実の世界を形成する、ということになるだろう。そして、それゆえに「イメージの世界に対する欲望、それこそが根源的な問題」となるだろう。現実を現実化するイメージの世界に対する欲望は、それが視覚化=象徴化されたときにはすでに隠され、共時的な無意識としてのリアリティを形成する。ここにリアリティによって欲望のありかを問おうとすることの陥穽と困難がある。表現メディアや時代を超えたリアリティの共時性を浮び上らせようとした同展は、また、こうした困難の表現でもあったという意味で、きわめて示唆に富むものであった。