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[自己を主題化した夭折の写真家/牛腸茂雄『SELF AND OTHERS』/アサヒカメラ1994年9月号:131]


 今回未来社から出版された牛腸茂雄の『SELF AND OTHERS』は、1977年に作者が自費出版した写真集の新装版である。46年に新潟県に生れた牛腸は、65年に上京し桑沢デザイン研究所に入学、二年間の基礎科の後に進んだ研究科で、本格的に写真と関わりはじめた。その時に、彼は自身の写真表現に対する態度をこう語っている。
 「最近、特に、写真が思想的に社会的にどうだというより、“自分の観る(ものの)検証”として撮りつづけて行きたい、という気持ちが高まって来ている。社会常識からすると、非常に勝手な人間に思えるかもしれない。以前に“大衆の為”ということを考えたことがある。しかし、ほんとうの意味で、大衆の為とは、いったい何をすればよいのか、ボクには答が出ない。先にもいったが、写真は、やっぱり“自分の為”のもののように思う。けど、この自分の為という問題も、ややもすると、危険を犯すことにもなりかねないことだと思う」。
 牛腸が写真と関わりはじめた60年代末とは、写真表現にとってどのような時代だったのだろうか。牛腸が研究科で師事し、本書にも序文を寄せている大辻清司が、当時のカメラ雑誌で述べている、牛腸を含む若い意識的な写真家の作品に共通する「コンポラ写真」と呼ばれた傾向についての一文を要約してみよう。――横位置が多く、人物を撮るとその顔は必ず画面の中心にある。それは写真表現の手練手管を潔癖なまでに否定し、カメラの機能を最も単純素朴な形で使おうとする態度の表明であろう。それゆえ、取上げる対象が日常ありふれた何げない事象が多く、決して対象を誇張したり強調するようなことはしない。混乱する社会や文化状況の中で表現者たちは、うつり変わる事態にもはや論理をうちたてる暇がないし、ぐらついた価値観の上にどんな論理も立てようがない。個人の内側にとじこもりがちであり、主義としての明確な論理が見付からないコンポラ写真は、このような現状に敏感に反応した個々の作家の即応的な論理の上に成りたっているのだろう――。
 『SELF AND OTHERS』を見るとき、牛腸の認識や、こうした写真表現の時代背景を確認しておくことは、とりわけ重要であるように思われる。本書の写真は全て、友人・知人・家族・出会った人などが横位置の中心に収められたものである。またそれらは、生れたばかりの赤ん坊の写真で始まり、家族写真、セルフ・ポートレイト、走り去って行く子供たちの写真で締め括られるように構成されている。ここで展開されている写真は、大辻が述べた傾向を十全に体現しているばかりでなく、その構成において、自己への関心が明確に貫かれていることが際立っている。この自己への関心は、その主題化の道筋において極めて独特なものである。コンポラ写真以前の写真においても、自己なるものが主題化されたことがなかったわけではない。だがそこで対象化されたのは、あくまでも社会の一員としての個人であった。それに対して牛腸が主題化したのは、いわば世界の部分ではなく限界に位置する自己であり、他者との単純な共感からではなく、他者との決定的な隔りによって確かめられる〈私〉の存在である。世界内属的な存在ではなく、世界を開く原点としての〈私〉から表現を捉え返すこと、対象から写真を規定することを疑い、写真表現に向かう態度そのものを問題としたコンポラ写真が導いたのは、自己言及的な営為の中で〈私〉の存在を確認する独我論的態度である。「自己と他者」と名づけられたこの写真集は、そのような態度の極点へと見る者を誘う。
 『SELF AND OTHERS』は、こうして自分と周囲の人々との具体的な関わりの物語である以上に、自己が自己を省みる身振りとして人々に語りかけるものになるだろう。自己が自己を省みる、このいっけん自明であるがしかし表現へ還元することの根源的な不可能性を孕んだ身振りは感動的である。だが同時に、表現された身振りは、すでに身振りそのものではない。今日本書を見る者は、時代を超えて強いられるこのような逆説を忘れてはならないだろう。