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[隔たりの構成/豊原康久写真集『Street』1993年11月刊・添付テキスト]


 ここに示された数々の写真について、たとえば街路、女性…といった共通する対象をあげることができる。あるいは、交差する人々、曖昧な仕草、物憂げな表情…といった共通する特徴を数えあげることもできる。だが、ここに示された写真を見ることは、こうして見えるものをめぐることにとどまりうるものだろうか。
 この問いが生じるのは、ここに提示された写真に、見えるものから導き出されるそのような共通点に先立って、明確に見て取ることができる特徴があることによる。それはこれらの写真が、スナップ・ショットという技法によって撮られていることである。スナップ・ショット――即興的撮影、偶然の瞬間を捉えること、小型カメラで自らが動きつつ撮影すること。このようなスナップ・ショットの性格の中には、より自由な視点の選択の可能性といった以上の契機が孕まれているように思える。
 たとえば自らが動きつつ撮ることは、およそ凝視するという意味での見るということからはほど遠い行為である。しかも、それが繰り返されるスナップ・ショットにおいて、見ることはつねに遅滞し続けることになる。もしスナップ・ショットが偶然の瞬間を捉えることだとすれば、その行為の最中において撮影者は、自らが捉えた瞬間をけっして見ることがない。それは偶然の瞬間を捉えるというよりも、定義上偶然でしかありえない。撮影者は、一定の過程を経たのち写真を見ることによってのみ、自らが捉えた瞬間を結果として知る。すると、ここでの見ることは、すでに見たものを再び見ることではなく、いわば見ることの遅滞を見ること、自らの行為の痕跡を見ることにほかならない。
 では、ここに示された写真に先行してその基底を形作っているのは、街路を歩きさまようといった行為なのだろうか。そうではないだろう。スナップ・ショットという技法において目的的なのは、つねに撮るという行為であり、そのほかのことではない。スナップ・ショットという技法に内在する、撮ることと見ることの隔たりに潜む遅滞こそが基底的であり、それが隔たりを歩きさまようといった行為として現実化し構成するのである。隔たりを現実化させるこの遅滞が構成するのは、むろんそのような行為だけではない。というよりこの遅滞こそが、現実化される諸々の行為やその結果に先立ち、自らをそれらの内に織り込みつつ、その現実化の可能性の条件そのものを構成しているのである。
 こうしたことを導くスナップ・ショットという技法は、かつては整合していたであろう見る/撮るという行為を、二重化された契機に分かたずにおかないだろう。ここにおいて、撮ることは、見ることの遅滞を作り出すとともに、それを見ることをいわば先取りしようとする契機であり、見ることは、見ることの遅滞を見ることにおいて撮るという行為を再構成しつつ、撮ることの内に見ることを潜在性として埋め込む契機になるだろう。
 このようにして考えるとき、ここに写真として現実化されたものとは、先取りされた見ることと、撮るという行為の再構成との結節点にほかならない。その結節点とは、ここで示された写真から見えるものに顕在化しているが、かといってそれに終始するものでもない。なぜなら、ここでの見えるものとは二重化された契機に彩られ、その構えの在りようによって構成されたものだからである。では豊原は、ここに示された写真において、何を先取りし、何を再構成し、いかなる構えを提出しようとしているのだろうか。
 この問いは、はじめの問いを別の局面に導くことになる。このような問いそのものを可能にする局面、すなわち写真によって構成される一連の写真行為が、見えるものを逆説的に排除しつつ、それを否定する動力によって自らの等質性を構成する局面における問いである。このような局面を不可避的に照し出すであろう本書が要請しているのは、等質性と見えるものとの同一性を見ることではなく、その隔たりを捉え返すことにおいてこそ、ここに示された数々の写真を見ることではないだろうか。