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[二十世紀の写真家〜その過程と軌跡12:貫かれた近代性…L.モホリ=ナジ/日本カメラ1993年12月号:130-131]


 「未来の文盲は、ペンと同様、カメラの使い方を知らない者のことになるだろう」("PHOTOGRAPHY IN PRINT" UNIVERSITY OF NEW MEXICO PRESS)。画家として出発し、立体造形、タイポグラフィ、映画、宣伝美術、展示、舞台美術など多岐にわたる制作活動に携わり、写真においても多くの仕事を試みたラスロー・モホリ=ナギ(Laszlo Moholy-Nagy)のこの言葉は、よく知られたものだろう。
 ここに端的に標されているのは、人間の進歩や発展を導く新たなメディアとして写真を捉える視点である。人間は物を作り、歴史を作ることで、無限に進歩し、発展する。現在は過去よりも良く、未来は現在よりも優れたものになるだろう。近代的な価値観の根底を支えているのは、ごく最近まで、あるいは今日なお暗黙の内に自明化されている、このような進歩や発展という考えに基づく歴史の捉え方である。そして、モホリ=ナギの仕事を振り返るときはっきりとした形で浮び上ってくるのは、制作という場面を貫いていくこうした近代的価値観にほかならない。
 1895年ハンガリーに生れた彼は、1913年ブタペスト大学で法律を学ぶが、翌年第一次世界大戦に徴兵され、負傷の療養中にデッサンや水彩画を描きはじめる。その間、表現主義や未来派などの動向を知り、終戦後復学し学位を取るものの、画家になる決意を固め、前衛芸術運動グループ『MA』に参加。絶対主義、構成主義などロシアの前衛芸術に触れ、様々な実験的な表現へと歩を進めはじめる。ハンガリー革命後の社会体制に絶望し、祖国から逃れ一時ウィーンに滞在した後、21年に移ったベルリンで多くの前衛芸術家たちと出会ったモホリ=ナギは、翌年、非対象的絵画や、純粋に色彩や形態を扱った彫刻をはじめての個展で発表する。これをバウハウスの学長ヴァルター・グロピウスが見たのがきっかけとなってマイスター(教授)として招かれることになった。
 彼がワイマールのバウハウスに赴任した23年は、グロピウスが、手工技術だけではなく近代的技術としての機械技術に焦点を当てた新たな指導理念を「芸術と技術――新しき統一」というスローガンの下に提出した年でもあった。金属工房と予備課程を担当し造形指導を行った彼は、新たな造形手段として写真に着目し、自らも絵画制作のほかにフォトグラム(カメラを用いずに印画紙を直接感光させた写真)やフォトプラスティック(デッサンを加えたフォトモンタージュ)などを制作しつつ理論構築を展開する。これら一連の活動はグロピウスの理念の現実化ともいうべきものであり、モホリ=ナギはもっとも若いマイスターではあったが、バウハウスがデッサウに移転し、グロピウスの退陣と共に28年にバウハウスを去るまで、中心人物となって精力的に活動した。レイアウトや企画編集を手がけたバウハウス叢書はその業績の一つだが、その中の一巻として出版された自身の著作『絵画・写真・映画』で彼は、芸術と技術を生活において総合する新たな視座を獲得する可能性を写真というメディアに重ねて、つぎのように述べている。
 「人々は――現に存在する技術の試験に基づき正しい問題設定をすることにより――多くの技術的革新と可能性を手に入れることができよう。…避け難かった伝統的視覚造形形式へのよろめきはいまや我々のものではなく、今後新しい仕事を妨げることもない。いまや人々はみずからをとりこにした光による仕事が顔料による仕事とは何か別のものであることを知っている。伝統的な絵は歴史的となり、終っている。…さらに年月がいくらか進み、写真技術の熱狂的支持者がいくらか増えれば、新しい生活は写真が最も重要な要因の一つとなって始まったということが一般的認識になるだろう」(利光功訳、中央公論美術出版)。
 モホリ=ナギは、写真のどこに、こうした人間の発展と歴史の進歩を導くメディアとしての可能性をみたのだろうか。彼はいっている。「写真装置は我々の視覚器官、目を、より完全なものにできる、というより補うことができるのである。…我々は写真装置のうちに、客観的視の始まりへの信頼するに足る補助手段を所有していることになる。一般に主観的な態度表明に達しうる前に、誰もが光学的に真実のもの、それ自体明確なもの、客観的なものを見る必要があろう」(同前)。ここで前提とされているのは、物を見ることとは主体が客体を対象として観察することであるという考え方、つまり主体と客体の関係図式である。この図式において世界は、観察する主体と主体が見ている物という二つの項に隔てられる。ここでの正しい観察とは、対象のありのままの様相を捉えることであり、また、ありのままの様相が把握できたと考えるとき、観察は客観的なものであるとされる。主体と客体の関係図式が近代的価値観における認識の基底となったのは、この積み重ねによって人間は進歩し、より確実な客観的真実に近づくことができると考えられたからである。
 「個人的にではなくて、その表現がすべての人びとにとって『客観的』な意味をもつものであれば、実り多い結果を招くことになるだろう。これは、文化の発展に対する人間の貢献にもつながりを持つ。客観的性質を実現する規準をもとめて、近づくことが可能であればあるほど、それだけ貢献度は高くなるだろう」(『ザ・ニュー・ヴィジョン』、大森忠行訳、ダヴィッド社)。表現の役割をこのように規定し、さらに「特定の時代の造形にはその時代に合った手段で仕事をすることが当然と思える」(『絵画・写真・映画』)というモホリ=ナギが写真にみたのは、より確実な客観性をその機械的技術によって保障する、時代に適切なメディアとしての役割にほかならない。
 ところで、新たな発見がつねに古いものの進歩を前提としている以上、近代的主体は観察によってえられた客観性を自らの技術に組み入れ主体化し、それによってさらなる客観性を獲得していくことをその本性として孕むことになる。主体と客体の関係図式が根底にもっているのは、じつは、このような操作する主体と操作される客体という構制である。これを構造的にみるとき、客観的な真実の獲得とは、対象に介入し操作するための仮象というべきものになるだろう。徹底した近代的人間であったモホリ=ナギは、近代的表現に潜むこのような矛盾をも、もっともよく体現することになる。
 モホリ=ナギは、つねに「われわれは、みずからの主目的を、健全な生活計画におくべきである。…技術的進歩は、決して目的ではない。それは、手段である」(『ザ・ニュー・ヴィジョン』)と唱えたが、それは技術や材料を考察する過程において、逆説的に手段それ自体を徹底して目的化していくことでもあった。たとえば彼にとって写真は、従来の客観性を強化する、たんなる完全な描写や再現の手段ではなかった。写真の機械的技術に新たな可能性をみることは、技術や材料それ自体がもたらした新たな客観性を捉えることであり、具体的には、その考察は技術や材料そのものを対象化し操作することによって果たされた。写真という機械的技術を、カメラ・オブスキュラを原型とする光学と、光を定着する感光材料の化学の関連から洗い直し、写真の本質的道具はカメラではなく感光層であるという観点から、光造形の新たな可能性を導く材料として感光材料に着目したフォトグラムはその典型的な例だろう。彼の多岐にわたる制作と理論のすべては、このような技術や材料の対象化による操作から導かれる、新たな関連の創出から成っていたといってよい。またこのような方位は、現実的な成果を安易に求めることを退けることによって、いっそう強固なものにされた。彼はいう。「今日の初期の段階から――写真も抽象画も――すぐさま全体像を継ぎ合わせて描こうと望むのは命取りになりかねないし、それに加えて今日誰かが申し立てるのとはきっと違った状態にある未来の綜合可能性を過少評価することになりかねない」(『絵画・写真・映画』)。
 バウハウスを辞任し、ベルリン、アムステルダム、ロンドンと移った後、37年にモホリ=ナギは、シカゴの美術工業協会が設立したニュー・バウハウスの校長として招かれる。翌年財政難よりニュー・バウハウスが閉校となると、私費を投じてスクール・オブ・デザインを設立し、46年に生涯を閉じるまで、「ニュー・ヴィジョン」と称された新たな表現の役割を情熱的に説き教育に携わった。だが彼の生涯を規定したこのような方位を、たんに情熱と呼ぶべきだろうか。それは、進歩や発展という価値観に彩られた近代的時空間に生きる人間の宿命ではないだろうか。
 今日においては、制作・理論・教育に渡っておよそ類例がないほどに貫かれた、モホリ=ナギの近代性を批判することはたやすいことだろう。しかし80年代の表現におけるポストモダン的言説もまた、ほかならぬその近代性によってもたらされた諸形式の自律性に根拠を負っている以上、モホリ=ナギの近代性とポストモダン的言説はメビウスの輪のようにつながっているといわねばなるまい。問われなければならないのはむしろ、今日、私たちのいったい誰が近代的表現を体現しえたのかということではないだろうか。