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[二十世紀の写真家〜その過程と軌跡11:告発の構図…W.H.ジャクソンとP.ビアード/日本カメラ1993年11月号:130-131]


 かつて人類は、自然のサイクルに自らの営為を合せることで、生活様式を形成していた。しかし近代社会において、従来の自然と人間の関係は大きく変容する。人間は自己や個人といった項目に自らの在りかを見出すと同時に、自然を対象化し、人間と一線を画した客体として扱いはじめる。こうした構図においてなされた人間生活の拡張は、その反面で自然環境の破壊を導いてきた。自然と人間を分離し、自然のサイクルを無視することで、近代社会は人間の自立を確立してきたといえるだろう。
 いうまでもなく写真というメディアも、このような近代社会から出現したメディアである。写真が近代社会のなかで必要不可欠なメディアとして認知されていく過程には、様々な要因を求めることができる。なかでももっとも重要なのは、資料としてその価値が見出されたことだろう。写真は出来事や現象を対象化し記録するだけでなく、対象化したものを持ち運び可能なものにする。「〜のことはこうなっている」「〜についての事実を申告する」という形で未知の出来事や現象を人々に知らせる写真は、つねに告発という形においてその資料としての価値を見出されてきた。近代社会が生み出したメディアが、近代社会を告発する。そして、近代社会最大の問題であるだろう自然環境についても、写真メディアは告発する装置として機能していく。
 19世紀後半のアメリカ西部の写真で知られるウィリアム・ヘンリー・ジャクソン(William Henry Jackson)の仕事は、このような写真の性質をよく示すものだろう。1843年、ニューヨーク州に生れた彼は、父がダゲレオタイプを撮っていたこともあって幼少から写真に親しみ、10代の半ばには写真の着色や修正で収入を得ていた。南北戦争の志願兵を務めた後は旅に出て、67年ネブラスカ州オマハに居を定め、自営のスタジオを設立すると同時に、近隣地域のアメリカ・インディアンの肖像や住居や、ユニオン・パシフィック鉄道の変遷を撮影して紹介している。大きな転機を迎えるきっかけとなったのは、六九年の撮影旅行で、准州地質・地理学踏査隊を指揮していたファーディナンド・ファンドフェール・ヘイドゥンに、ワイオミング州で出会ったことだろう。翌年、同行する写真家を探していたヘイドゥンに求められ、ジャクソンは七八年まで踏査隊に加わり、数多くの西部の写真を残すことになった。
 メキシコ戦争でニューメキシコ、カリフォルニア地方の広大な西部の土地を勝ち取り、南北戦争も終結した当時のアメリカにおいて、後に内務省の地質調査局に統合されるヘイドゥンの部隊など幾つかの踏査隊が果たしたもっとも重要な役割は、獲得した未開の領土を地質学・地勢学・古生物学などによって人間の認識の内に収め、必然論を前提とした当時の科学によってフロンティア精神を裏打ちすることであった。ジャクソンをはじめとする西部開拓時代の写真家たちの仕事は、そのための資料として様々な側面で絶大な効力を発揮した。ジャクソンが71年にイエローストーン地域で撮った写真は、その代表的な例だといえるだろう。ヘイドゥンは、それぞれの地域には神によって人間に与えられた用途があり、したがって人間によってしかるべく開発されるべきだという考えを持っていた。彼はイエローストーン地域に、天変地異の痕跡を残した崇高美の雛形としての用途を当てはめ、それを保護することを国会に働きかけた。
 イエローストーン地域を観光資源として捉えた銀行と鉄道会社、驚嘆すべき西部の光景の保護を望んだ議員、西部の開発を後押しする題材としての可能性を感じた西部の人々、それぞれの思惑が絡み合って、充分に開拓され探査された西部の象徴としてのイエローストーン地域は、72年アメリカでそして世界ではじめての国立公園として制定されることになる。このような一連の動きは、ヘイドゥンが証拠資料として用いたジャクソンの写真を抜きにしては考えられないものだろう。持ち運べて説得力のある視覚的な報告としての彼の写真は、イエローストーン地域の保護の必要性を短い期間で多方面の人々に訴えることを可能にしたのである。
 ここで注意しなければならないのは、ジャクソンの写真は今日において景観の克明かつ細密な記録であるかのように見えるが、けっしてそうではなかったことである。目的のない調査・記録などありえないように、彼の写真もまた踏査隊の目的に合致したものであった。というより、すでに10代のはじめに絵で収入を得て、一時は画家を志したこともあった彼にとって、開拓時代の風景観は身についた自らの風景観でもあったのである。イエローストーン地域の写真は、明確な前景を欠き、断崖や湖や大地が遮られずに無限に続くように見える視点から写されている。ここでは、自然の空間と人間の空間は、対立関係におかれ、両者ははっきりと区別されている。そして興味深いのは、このような写真によって導かれた、国立公園という形態での自然環境の保護が、自然と人間を分離する近代社会の原理に立ったうえで、西部の開発という自然の征服を基底としてなされたものであったことだろう。
 こうした写真の機能を先例としながら、今世紀の多くの写真家もまた写真によって環境の破壊を告発している。そこに広くいきわたっているのは、自然と人間をより明確に分離しながら、自然の征服を前提に人間が自然を支配し管理するという、ジャクソンの写真にすでに潜在していた構図にほかなるまい。
 しかし今世紀の後半に入り、近代社会の成り立ちそのものに内在する矛盾が環境問題においても露になるにしたがって、写真による告発の在りようも変化を迫られたように思われる。ジャクソンから約一世紀を隔て、1938年にニューヨーク州に生れたピーター・ビアード(Peter Beard)は、大学を卒業した61年ケニアに移住し、最大の野生保護区ツァヴォ国立公園でのアフリカ象の大量死を写真に記録する。65年に刊行された『ジ・エンド・オブ・ザ・ゲーム』で彼は、神話時代から現代に至るまでの象と人間の関わりを映像資料と文章で再構成しつつ、自らが撮った写真を用いて植民地時代以降の歴史によって導かれた象の大量死を告発している。そこで告発されているのは保護されるべき自然ではなく、保護の名の下での人為的な境界が引き起こした、象の大量死をとおして見られる環境破壊である。その序文でビアードはいっている。
 「アフリカには常に生命が満ちあふれ、したがって死も満ちあふれている。しかしそこには自然の均衡が保たれている。自然は測り知れない年月を費やして、この限りなく複雑な『生態適所』という調和に到達した。…かつては広大な平原が広がっていた土地に都市を建設するのは、複雑な問題を産み出した。善意、現実的な判断、効率的な技術、これらによってその地は破壊された。このまま続ければ結果は火を見るよりも明らかである。…アフリカの慣習とプライバシーをほとんど顧みることなく、人は自分の生活様式をもってアフリカに侵入してきた。アフリカは追い回され、略奪された。『ジ・エンド・オブ・ザ・ゲーム』はこの顛末の一部を語っている。本書がアフリカ生活の真髄である動物を扱うからである。われわれは人間性によって征服したと思い込んだが、まさにその人間性の放縦によって、われわれは自らの敗北に深く思いめぐらすように促されている」(伊藤俊治・小野功生訳、リブロポート)。
 人間は敗北した、自然のサイクルを尊重しなければならないというこの主張は、露呈した近代社会に内在する矛盾にいっけん見合った告発であるようにみえる。たしかに人類の進化はアフリカを舞台に展開したといわれる。だが、アフリカの環境が近代社会における人間を育んだわけではない。そしてこのようなビアードの主張の前提となっているのもまた、自然と人間の対立的な関係というすぐれて近代的な図式であり、その告発は自然と人間の優位関係の反転によって形作られている。神話時代に遡りつつ自然を優位に置くことで、自然の征服によって構築された近代社会を基底にしながら、歴史を越えてそれを否定しようとするこのような告発は、ロマンティシズムを否定するロマンティシズムによって近代社会の矛盾を彩るにすぎない。
 近代社会の成り立ちに内在する矛盾が露呈するにしたがって、現代の写真表現もまた人間中心主義に内在する諸問題を描くようになってきている。だが問題を表象することは、かならずしもそれを内省的に捉えることを意味しない。問われなければならないのはむしろ、近代社会において培われてきた、表象によって問題そのものを解消しさえする写真というメディアの機能であり、その告発の構図にほかならない。