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[二十世紀の写真家〜その過程と軌跡10:都市論的言説の網の目に生きる…アジェ/日本カメラ1993年10月号:138-139]


 パリの街の様相を捉えた膨大な写真を撮りながら、ほとんど人に知られることなく1927年に他界したユジェーヌ・アジェ(Eugene Atget)は、その生涯が多くの謎に包まれた伝説的な写真家である。だが同時に、アジェほどその伝説がよく知られた写真家もほかにいない。多少の異同はあれ、たとえば次のような記述は、彼について振り返るときに出会う典型的なものであろう。
 「田舎の馬車製造業者の息子だったアジェは、若い頃は船乗りをしていた。彼は一八七九年にパリに出て、国立演劇学校に入学した。旅回りの役者としてしばらく働いた後、彼は絵を描こうとしたが、いずれも成功しなかった。一八九九年に彼は、当時すでに時代遅れとなっていた安くて重い蛇腹つきのカメラを使って写真を撮りはじめた。途方もなく大きな木製の三脚を担いで、彼は毎朝毎朝、写すものを求めてパリの街を歩き回り、夕方に帰って来て、台所で八×一〇インチの乾板を現像した。彼の家のドアの上には『画家向け写真販売』という看板が釘で打ちつけてあった。一五年間にわたって、アジェはパリの街角を記念碑や噴水などとともに撮影し続けた。時には彼は街を行く行商人、傘を売り歩く男、手風琴を持った乞食などを写したこともある。彼の顧客の大部分は画家であったが、ショーウィンドーに飾る写真を求めに来る商店主もいた。アジェの商売は、第一次大戦までは大繁盛していたのだが、大戦が始まると下り坂になってしまった。…年を取るにつれ、彼は写真の撮影をやめ、以前に撮った写真を売ることで得られる乏しい収入で暮らすようになった」(ジゼル・フロイント著『写真と社会』佐藤秀樹訳、御茶の水書房)。
 生前に写真が発表されたのは、近隣に住んでいたマン・レイが彼の仕事に興味を持ち、死の一年前に『シュルレアリスト革命』誌に数枚がアジェの希望で匿名で掲載されただけだった。このような逸話とともに、アジェの写真を特徴づけているのは、彼が写した対象であろう。1889年・1900年にはパリ万国博覧会に合わせてエッフェル塔・地下鉄がそれぞれ建設され、近代化が進む二十世紀初頭のパリにあって、アジェが捉えたのはそのような新しいパリの姿ではなく、失われゆく古典的なパリの姿だった。写真の購入を求めて1920年に書かれた手紙のなかで、彼はこう述べている。
 「私は二十年以上の間、私個人の考えから、パリのすべての古い通りの写真を撮り続けてまいりました。それらの大きさは一八×二四センチで、十六世紀から十九世紀までの美しい建築物に関する芸術的な資料です。古い館、歴史的あるいは珍しい建物、美麗な玄関や戸口、壁板、それに扉叩き、古い泉、昔風の木や錬鉄の階段、さらにパリ中の教会の内部(全体と芸術的な細部)、…などがあります。これらの芸術的で参考資料となる膨大なコレクションは、すでに完成しております。私は、全ての《古きパリ》を所有しているということができます」(『アール・ヴィヴァン』十八号、横江文憲訳、西武美術館)。
 では、こうしてアジェが捉えた古典的な都市としてのパリとは、どのような存在だったのだろうか。19世紀から20世紀に至るまでのヨーロッパにおける都市とは、アメリカとは異なり、けっして新しい存在ではなかった。その原形の起源を、古代ギリシアのポリス、ローマ帝国の都市、ヨーロッパ中世の城郭都市などに遡ることができる、むしろ伝統的な古いものにほかならなかった。しかし、この19世紀から20世紀にかけて、古典的な都市から近代的な都市への構造的変化が浮上してくる。またそれにしたがって、ヨーロッパにおいて都市をめぐる言説が数多くあらわれるようになった。
 写真史において、1852年に出版された東方旅行の写真集『エジプト・ヌビア・パレスチナ・シリア』でよく知られているマキシム・デュ・カンは、この変化をよく体現した一人だろう。「知事オスマンの手によってパリは相貌を一変する。『進歩』の観念は不動の確信となり、1855年、パリで開催された万国博覧会は、人々の目には近代の輝かしい達成のように映った。そしてデュ・カンは何よりも『進歩』を信じ、『科学の未来』を疑わぬ大多数の人々の側に属していた。…近代の信奉者であるデュ・カンには、そもそもヨーロッパ近代精神の体現者たるにふさわしい資質がそなわっていたように思える。それは一言にしていうなら、新しいものに対する飽くなき好奇心であり、一介の書斎人としてとどまることを許さぬ決断力と行動力であった」(デュ・カン『文学的回想』所収・戸田吉信「解題」、冨山房)。
 世俗の名声を求める気持ちがきわめて強かったといわれるデュ・カンにおいて、この好奇心、決断力と行動力は、考えられるかぎりの近代を特徴づける新たな作家性にかかわる項目に、次々と自らを染め上げていくという形になってあらわれた。写真家という項目は、彼にとってその一つにすぎなかった。詩人、旅行家、写真家、編集者、小説家、美術評論家、歴史家など、そのいずれでもあるがゆえに、そのいずれでもなかったことにおいて、彼は近代という時代の特質をよく印している。このようなデュ・カンが、十九世紀の後半に多大な労力をそそいで、「パリの機能と役割を歴史的、社会学的に厖大な著作にまとめるという仕事」(同前)、つまり都市論としてのパリの考察をいち早く展開していることは、きわめて示唆的である。
 20世紀にはいりると、さらに多くのヨーロッパ人が都市論的言説を紡ぎ出すようになる。その背景には、都市の機能と役割を考えるためには同時にそれを成立させている歴史や社会について問うことが、そして、歴史や社会を考えるためには同時に都市の機能と役割を問うことが、避け難く要請されるようになったという事情があるだろう。つまりそこでは、都市について考えることは、たんに都市の様相を記述することにとどまらず、不可避的に近代的社会について問うことでもあった。
 19世紀の商品世界の遺物であるパリの遊歩街をめぐる考察を20年代末に構想し、大衆化・合理化・商品化といった側面を併せ持つ、近代社会の重層性を終生問い続けたヴァルター・ベンヤミンは、その代表的な実践者だろう。近代における芸術概念の変化をその生産技術から照射し、芸術観の転換を示した論考「複製技術の時代における芸術作品」を30年代半ばに書いた彼は、それに先立つ小論「写真小史」で、アジェの写真の意義についてこういっている。
 「アウラからの対象の解放は、かれによって口火を切られた。…アウラとは何か? 空間と時間とが織りなす、ひとつの特異な織りものであり、どんなに近くてもなおかつ遠い、一回限りの現象である。…対象の外皮を剥ぎとり、アウラを粉砕することは、地上の同等のものすべてにとって大きな意味をもつひとつの知覚の、あかしなのだ。なぜならそういう知覚は、複製という手段をつうじて、一回限りのものからも、同等のものをつくりだすのだから」(『複製技術時代の芸術』所収、田窪清秀・野村修訳、晶文社)。
 アジェの写真と重ねて、近代がかかえる表現の問題をこのように述べるベンヤミンは、アジェが捉えたパリが古典的な対象であったがために、そこに近代の隠喩としての都市を見出した。ゆえに彼はこう語るのである。「アトジェによる撮影が、犯行現場の撮影に比せられたのは、理由のないことではなかった。だが、われわれの都市のすべての地点は、犯行現場ではないのか? そこを通行するすべての者は、加害者ではないのか?」(同前)。逆にいえば、自身が十九世紀のパリをテーマにした遊歩街論によって、すぐれて現在的な問題を提起しようとした彼は、アジェの写真を都市論として語ることによって、近代を問いつつ現在に向けての言説を編制したといってもよい。
 近代的な都市への変化の中から古典的な都市を見ようとした名声とは無縁であったアジェは、いっけんすると、パリの古典的な都市から近代的な都市への変化を体現していった世俗的野心に満ちたデュ・カンの対極にいるようにもみえる。また、じっさいアジェの描いた軌跡はデュ・カンと対称的なものだったともいえよう。しかし、注意しなければならないのは、アジェの写真の価値もまた、デュ・カンを先駆けとするような都市論的言説の編制において見出されていることである。アジェの評価が死後になされたという現象が告げるのは、彼が徹底して言説のなかでのみ見出されてきたという簡明な事実である。現在なおアジェの写真に価値が見出されえるのは、たとえば伝説としての彼の生涯と古典的なパリへの視線が幾度も語り直されるように、それが都市論的言説の網の目のなかに生きつづけているからにほかならない。そして、今世紀における都市論的言説とは、ベンヤミンにみられるように、近代への問いと必ず不可分の関係にあるものである。
 技法も対象も古典的であったアジェの写真に遡行することは、いっけん写真の根源的な価値に触れることのようにみえて、そうではない。今日、アジェの写真に触れることは、言説に埋め込まれたアジェを見ることであり、その遡行において、逆説的に近代的言説への問いのなかでアジェを見ることにほかならない。