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[二十世紀の写真家〜その過程と軌跡9:変容する「客観性」…ザンダーとベッヒャー夫妻/日本カメラ1993年9月号:130-131]


 今日、近代の表現を定義することは、ほとんど不可能なことであろう。しかしその反面、近代の表現に貫かれているものはきわめて明らかであるように思われる。それは、各領域における独自性、つまり、それぞれの領域における自己目的化した表現の形成作用の確立ということにつきるだろう。では、写真における独自性とはどのようなものだろうか。たとえばよく引かれる、フランス学士院でダゲレオタイプの発明について最初の報告を行ったというフランソワ・アラゴーの次の言葉は、写真独自の性質を語る際の一般的な規範を提供してきたといえるだろう。「ダゲール氏は映像を完全にとどめることのできる特別なスクリーンを発明した。そのスクリーンを使用すると像はすべてにわたり細部まで、無類の正確さと繊細さをもって再現される」。そして、この事物を正確に繊細に再現する写真の性質は、写真によってはじめてえられた客観性を保障するものとしてしばしば語られてきた。
 しかし、正確な再現とははたして客観性そのものなのだろうか。端的にいって、写真が客観性をえられるのは、その正確な再現性によるものではない。それは、写真と対象との関係性において形成されるスタイルによるものである。写真がその形成作用を成立しえたとするなら、写真的スタイルの確立において写真が社会化され、それが意味づけられた客観性を生み出し、また同時にこの意味づけが、写真を客観的なもの、つまりすべてを対象化し物化するコードの上にあるものとして位置づけてきたからにほかならない。写真史における、19世紀のフランスの歴史的記念建造物委員会やアメリカの地質調査局の写真記録計画にはじまる資料としての写真の系譜は、このような物化するコードの上に成立している写真の質をよく物語っている。
 こうして捉えるとき、写真的スタイルとしての客観性は、結果から受動態として確立されていく過程に根差したものとして浮び上がってくる。ドイツ人の類型を540枚の肖像写真によって構成しようとした、アウグスト・ザンダー(August Sander)の未完の計画における写真は、その雄弁な実例であろう。
 1876年、ドイツの小さな町に生れたザンダーは、20歳前後から叔父の援助により、すでに独学で多くの写真を撮っていた。さまざまな写真会社で経験を積み、1901年には自分のスタジオを経営するに至る。展示会でも常に入賞を果していた当時のザンダーが作っていたのは、絵画的写真であった。しかし、第一次世界対戦中・戦後の政治的・経済的危機による注文の減少や、進歩的芸術家たちとの交流により、20年代には一転して絵画的効果をいっさい排除した写真を作るようになる。そして、ぼかしのはいるゴム印画法で焼付けていたかつてのネガを、細部までくっきりと再現される光沢紙に焼直しながら整理していくなかで、ドイツのすべての職業・階級・生活を写真で提示する着想が彼に生れた。ケルン芸術協会で展覧会を開いた27年、『二十世紀の人間たち』と名づけられたこの計画について、ザンダーは次のように語っている。
 「どうしてこのような作品を作ることを思い立ったのか、と私に訊ねる人がいる。見る、観察する、そして考える。これが答えである。われわれの時代の時代像を提示するには、絶対的に自然に忠実な写真によるのが何よりも適切である、と私には思われる。過去のあらゆる時代に挿絵つきの文書や書物が作られてきたが、写真はわれわれにさまざまな新しい可能性と、絵画とは異なった課題を与えた。写真は、事物をすばらしい美しさで再現することができるが、一方で怖ろしいほどの真実性をもって再現することもできるし、また、途方もなく欺くこともできる。…私が健全な人間として、不遜にも、事物をあるべき姿やありうる姿においてではなく、あるがままの姿において見るとしても、これを赦していただきたい。なにしろ、私にはそうしかできないのだから。私は三〇年間写真家であり、真剣に写真に取組んできた。正しい道を歩いたこともあれば、間違った道を歩いたこともあるし、過ちにも気づいた。…私は自分が正しい道の途上にあると期待している。はったりや、見せかけや、わざとらしさなどの砂糖をまぶした写真くらい、私の嫌いなものはない。だから私には、誠実な方法で真実を語らせていただきたい。われわれの時代について、そして人間たちについて」(『二十世紀の人間たち』、山口知三訳、リブロポート)。
 ザンダーの死後、『二十世紀の人間たち』をザンダーの息子とともに編集・出版したウルリヒ・ケラーは、その解説でこういっている。「しだいに明確になっていくザンダーの自己理解と符節を合わせるように、彼は、自分の創造的な仕事は歴史と社会の外側にあるひとつのアルキメデスの点に立脚するものであり、自分の撮る肖像写真は人びとに全く公正無私に『鏡をさしだす』ものであり、これによって社会的な位階秩序の『客観的』な像を提示することができるのだという信念を抱いている」(同前所収)。このような信念に基づくザンダーの仕事は、まさに正確な再現という結果がその形成において、社会性を獲得し意味づけられた客観性を導き出す過程の典型になっている。
 しかし、29年に刊行され好評をえた予備的作業としての写真集『時代の顔』で、出版を予告し予約まで受け付けていたにもかかわらず、『二十世紀の人間たち』はついにザンダーの手によって刊行されることはなかった。その理由にはナチスの迫害や火事によるネガの焼失が挙げられているが、その根底には時代の推移によって、計画そのものが計画の不可能性を示していったことがあるように思われる。単純化していうなら、時代が移り変わるにしたがって、表現全般を捉える力点は、結果から過程へと移行していった。物化するコードによって世界を捉え、結果が問題を構成すること自体が疑われはじめ、表現の問題は、その過程におけるコードの網の目を捉えることへと変容していく。
 ともに30年代のドイツに生れたベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻(Bernd und Hilla Becher)が、50年代末からはじめた溶鉱炉・ガスタンク・給水塔など19世紀の歴史的建造物を撮影する計画は、このような表現の変質をよく示しているだろう。60年代に発表活動をはじめ、70年に『無名の彫刻−建造技術の類型学』としてそれまでの仕事をまとめた彼らは、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの文脈で高い評価を受け、現在もこの計画を継続している。陰影が排除される曇天を選び、水平のカメラ・アングルで撮るという方法化された撮影、および類型学という規定という点で、ザンダーとベッヒャー夫妻の仕事は著しい類同性を描いている。しかし、ザンダーが社会的な位階秩序の客観的な像の類型学を主題として自己目的化することによって、写真表現の独自性が確立しうると考えたのと対照的に、ベッヒャー夫妻は、客観性すなわち類型学の過程そのものを主題化し自己目的化することで、彼らの写真を用いた表現の独自性を打ち出しているところに、この類同性が照し出す差異がある。
 だがここで注意しなければならないのは、ベッヒャー夫妻の作品が、19世紀の歴史的建造物を捉え、社会的な産業構造を提示することを直接の目的としていないからといって、社会性における目的論的配置をまぬがれているわけではないことである。今日、表現の形成過程におけるコードの網の目に力点が置かれることは、あらゆる価値判断、あらゆる目的論的配置から表現が解き放されていることに容易に擦り変えられがちである。しかし、そのような擦り変えこそが、自己目的化した客観性が獲得した社会性によってはじめて可能になったものにほかならない。ベッヒャー夫妻の作品がある一定の評価の対象となりうるのは、類型学の過程の自己目的化そのものが社会的なコードの網の目を喚起し、それと積極的に結び付くからであって、それ以外の要因からではない。
 事物を正確に再現する写真によってはじめてえられた客観性という一種の神話は、さまざまな形をとりながら現在に生きのびている。たとえば、ザンダーでは写真を社会化することを保障するものとして、ベッヒャー夫妻では写真の自己目的化を保障するものとして。また、それに応じて、ザンダーも自身の計画に取り憑かれた写真家として読み換えられるというふうに。先の引用に続けてケラーはいっている。「ほかならぬザンダー自身がそのような独立した立場に立脚することの不可能性を示す格好の例となっている。自覚してはいないにせよ、彼もまた、完全に党派的な視座を強いる特定の社会的立場を代表しているのである」(同前)。忘れてはならないのは、このことが今日の表現にも充分に当てはまることである。写真の客観性とは即自的に与えられたものでもなければ、恒常的なものでもない。それは、コード化され構造化された、歴史的・社会的な産物にほかならない。