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[二十世紀の写真家~その過程と軌跡8:実存主義的物語…エルスケンとゴールディン/日本カメラ1993年8月号:130-131]


 エド・ファン・デル・エルスケン(Ed Van Der Elsken)は、1925年、オランダのアムステルダムに生まれた。政治思想に関心を寄せ、戦争中ドイツの招集を避けるためオランダ南部に身を潜めていた彼は、アルンヘムの戦い以後、解放同盟の部隊に参加。戦後、父親のカメラで写真を撮りはじめ、様々な写真の仕事に就きながら、街の写真を撮り続けていった。ヒッチハイクで行ったパリとマルセイユの写真によって、エルスケンは左翼的傾向をもつオランダの写真家グループGKf(美術家連盟)に熱狂的に受け入れられ、戦後の虚無感と新しい社会や文化への渇望のはざまで生きる若者たちと、この気分を分かち合うようになる。
 このような気分の避難所をパリに求めた多くのオランダの芸術家同様、50年にエルスケンは再び、ヒッチハイクでパリへと向かう。マグナムの現像所、ピクトリアル・サーヴィスで働くが数ヵ月で職を去り、パリの街を歩きまわり写真を撮っていくうちに、サンジェルマン・デ・プレに住みつく様々な国の若いボヘミアンの一群に加わっていく。
 「若者たちはそれぞれに戦争に打ちのめされていた。ある者は戦闘や強制収容所を体験していた。ある者は戦争で両親を失っていた。ほとんどは定まった住まいがなく、酒場や路上で眠った。エルスケンが入っていったのは、インテリや芸術家のグループではなかった。彼らはサルトルを読まなかったが、サルトルが書くニヒリストに似ていた。エルスケンはそうした若者たちに魅了された。彼らの傷つけられた人格に、彼らの深い憂欝に心を惹かれた。そのうえ、そこには親しみやすい雰囲気があった。エルスケンは自分も彼らの仲間だと感じた。ある意味では、彼も消しがたい戦争の傷痕を負っていたのだ。その後の数年間、エルスケンはこれらの若者たちを撮り続けた」(エフェリン・ド・レフト、エルスケン『ONCE UPON A TIME』所収、中野恵津子訳、リブロポート)。
 戦争中に成長した世代を貫いていたのは、人間という存在は言葉によってあらわすことのできる合理的な世界にけっして収まりきるものではないという、ある感受性であった。普遍的・客観的に備わっているとされる本質から、人間を説き明かそうとする概念的思考では、戦争体験の不条理を内面化した〈私〉を捉えることはできない。いまここに現実に存在するという、人間の主体的・事実的な在り方に直面したこのような感受性にとって、人間の実存は、伝統的な思想の合理性が成立しないところに、現象という意味に近いものとして浮び上がることになるだろう。
 戦後のフランスにおいて、こうした考え方は実存主義と呼ばれた。実存主義を唱えたサルトルは、〈私〉が何者であるかは、〈私〉が私自身をいかなる人間に作りあげるかで決まると考える。「あるところのものであり、あらぬところのものであらぬ」即自的な性格を、本質的に自由な存在である人間は、「あるところのものであらず、あらぬところのものである」対自的な性格によってつねに超え出ようとする。人間がたんに存在するのではなく実存するのは、〈私〉がいまだあらぬところのものであるように、また〈私〉が現にあるところのものであらぬように、超越的な在り方で〈私〉を作り上げていくからである。ゆえにサルトルにおいて自由は、人間の実存を照し出す根本的な原理として捉え返される。「自由は、自由であらぬことに関しては自由でない。自由は、また、存在しないことに関しても自由でない。というのも、まさに、自由であらぬことができないという事実が、自由の事実性であり、存在しないことができないという事実が、自由の偶然性であるからである。偶然性と事実性とは、一つのものでしかない」(サルトル『存在と無』松浪信三郎訳、人文書院)。
 エルスケンが魅了され写真に撮った、サンジェルマン・デ・プレの若者たちは、まさにサルトルが『存在と無』のなかで繰り返しいう、「自由であるとは、自由であるように呪われていることである。あるいは、自由のなかに見捨てられていることである」という言葉が相応しい存在であっただろう。53年、『ファミリー・オブ・マン』展(55年)のためにパリにいたニューヨーク近代美術館の写真キュレーター、エドワード・スタイケンに評価された彼は、同展や『戦後ヨーロッパの写真芸術』展(53年)に選出され成功を収めた。そしてエルスケンは、サンジェルマン・デ・プレの若者たちを撮った写真を、セーヌ左岸で人生を過ごす女性に対する若いメキシコ人の報われぬ悲惨な恋の物語として、写真集『サンジェルマン・デ・プレの恋』(56年)に組み上げ、大きな評価をえていく。
 こうして作られたフォト・ストーリー『サンジェルマン・デ・プレの恋』は、まさに実存主義的気分の中で育まれたモチーフと方法論から生まれたものだといってよいだろう。それと同時に忘れてはならないのは、サルトルが唱えた実存主義が、言葉との関わりにおいて実存的な文学性を展開するように、『サンジェルマン・デ・プレの恋』もまた日常的なリアリティから社会的なものを語る物語の方法によって展開されていることである。だが、さらに重要なことは、エルスケンの写真が実存主義的なアプローチから生まれただけではなく、それ自体が実存主義的な物語によって成り立っていることだろう。『サンジェルマン・デ・プレの恋』が半自叙伝と呼ばれ、次の写真集『スイート・ライフ』(66年)が人生と彼自身の旅の物語であるのは、このことの雄弁な裏づけである。
 このような実存主義的気分、実存主義的物語は、むろんエルスケンに限られたものではなく、戦後の多くの写真家に何らかの形で広く共有され、表現の内的了解の根拠を与えていったものでもある。たとえば、二四年にスイスのチューリッヒで生まれ、戦後アメリカに移住したロバート・フランクは、エルスケンとともに『戦後ヨーロッパの写真芸術』展や『ファミリー・オブ・マン』展に選出され、アメリカ放浪の旅の物語を『アメリカ人』(59年)として出版し、現代写真のはじまりと称される存在になった。次の写真集『ラインズ・オブ・マイ・ハンド』(72年)もまた、人生と彼自身についての物語によって編まれた写真集である。
 『アメリカ人』の出版に際して、フランクはいっている。「ウォーカー・エヴァンズの写真をはじめて見たとき、マルローの『運命を自覚的なものに変える』という言葉が思い浮かんだ。人間は自分自身について知ろうと求め困惑する。しかし他にどのようにして、自分のしくじりや労苦を認めることができるだろうか」(『ROBERT FRANK』THE MUSEUM OF FINE ARTS, HUSTON )。このような姿勢は50年代のビート・ジェネレーションを特徴づけるものであるとともに、フランクの物語の方法を規定するものでもある。そして、フランクがそのスタイルを超え、その精神性によって現代写真のはじまりを告げた独特の存在として現在に語り継がれているのは、写真表現がその根底に実存主義的気分を今なお色濃く残していることの証左にほかならないだろう。
 今日においてこのことを具現しているのは、ナン・ゴールディン(Nan Goldin)であろう。53年にアメリカ、ワシントンDCに生まれボストンで育った彼女は、18歳のときから撮りはじめた写真を、80年代にスライド・ショーや写真集で展開する。写真集『性的依存のバラード』(86年)は、彼女自身が序文で書いているように、性と性的抑圧が18歳の姉を自殺に追い込んだのを11歳のときに見たゴールディンが、それを契機として14歳で家を出て、異性・同性の恋人・友人たちと送っていった共同生活についての写真日記、自叙伝としての物語である。彼女はいう。「私は私の生活からダイレクトに写真を撮る。これらの写真はその関係性から生まれたのであって、傍観することから生まれたのではない」(『THE BALLAD OF SEXUAL DEPENDENCY 』APERTURE)。また、ドラッグ・クイーン(女装するゲイ)の写真を編んだ最近の写真集『THE OTHER SIDE』では次のように述べている。「この本におさめたのは、性別のディスフォーリア(異和感)に悩む人々の写真ではなく、むしろユーフォリア(幸福感)を表現している人々の写真だ。この写真集は新たな可能性と超越性についての本なのである。写真に写っている人々はほんとうの意味で革命的だ」(植田可子訳、フォトプラネット)。
 このように自らの物語があたかも自らの生そのものであり、またその生があたかも必然的に自由であったかのように転倒されるとき、その即自性によって超越されるのは、むしろ〈私〉の実存を作り上げる対自的な原理である。むろんこれは、合理主義を乗り超えることや、ましてや実存主義を超え出ることなどとは無縁であるばかりでなく、惰性的な自由としての実存に埋没した〈私〉によるニヒリズムの陳腐化から即自的に生み出された、幼稚化したヒロイズム以外の何ものでもない。現代写真は今日なお、社会と個人、世界と私といった対立的な項目を変奏しつつ自らを語ろうとする。しかし、自らの根源を〈ストレートな私の物語〉の感覚的な直接性において見出そうとするとき、現代写真が露出するのは、それらの対立的な項目自体が矮小化した実存主義的気分の頽落形態に彩られたものであったということにほかなるまい。