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[二十世紀の写真家~その過程と軌跡6:撮る身体…ゲリー・ウィノグランド/日本カメラ1993年6月号:126-127]


 今日、写真表現を機械性から捉えることは、けっして新しい響きを持ってはいないだろう。しかし写真が発明されて以来、機械という観点を外してその独自性が語られたことがなかったこともまた事実である。たとえば『写真の歴史』を、イアン・ジェフリーは次のような文章からはじめている。
 「先駆者となった写真家たちの前には、出発点においてすでに重大な問題が横たわっていた。写真という表現媒体にひそむ機械的自動性の問題である。当時もそれ以後も、一つの発明としての写真とは、正確には自然が自己の映像(イメージ)を記録できるという能力の発見に他ならなかった。…彼らの映像(ピクチャー)に意味を与え、写真が“太陽の鉛筆”による無作為な記録以上のものとなるようにと、写真家たちは記号や象徴が暗示する力を利用し始めた。…写真制作そのものがまた主題となったのである。『芸術と表現』という領域では疑問であるとみなされた媒体を使って作業することを通じて、写真家たちは、一時的にではあれ、その媒体の中の特殊な条件に気づいていたのだった」(伊藤俊治・石井康史訳、岩波書店)。
 機械とは本来的に人間の身体機能の一部分に取って代わるものであるといわれている。機械は、身体がもともと持っていた統一性を強化するものとして働く。人間は、機械を身体の一部として組み込むことによって、個体としての同一性をその外へと拡大する。これに伴って、個体としての身体は、時間的にも空間的にも飛躍的に拡張してきた。しかしその一方で、機械と結びついた身体は、それ固有の知覚や行動を再構成する。それはかならず、もとの身体の知覚や行動とは断絶を含んでいる。この断絶が深く刻まれれば、やがて機械と身体の関係そのものが人間の身体を構成するものとなり、それまでの身体とは異なる身体として働きはじめるだろう。こうしたことは、多くの機械論あるいはメディア論が述べるところのものだが、写真表現の問題もまた、機械と身体の関係から生じるこのような知覚や行動の変化をめぐってきたといえるだろう。
 1928年に生れ、20歳で写真をはじめてからスナップ・ショットを絶え間なく撮り続け、1984年にこの世を去ったゲリー・ウィノグランド(Garry Winogrand)は、このような機械と身体が二重化された関係を体現しつつ、一方できわめて明快な写真行為を営みながら、他方でつねに現代の写真表現を規定する位相を鮮やかに照射した存在であった。彼は「写真を理解するために」という小文の中でこう述べている。「芸術作品においては、形式と内容がそれを作る道具と素材に有機的に結びついている。写真は化学的、機械的過程の産物だ。文字どおりの描写、あるいは文字どおりの描写のイリュージョン、それが写真の道具と素材が他のどんなグラフィックなメディアより機能する側面である。時間と空間の断片を、カメラがどのように見たかということの文字どおりの描写のイリュージョンが写真なのだ」("GARRY WINOGRAND" GROSSMONT COLLEGE GALLERY)。
 1948年、高校を卒業し、2年間の従軍を終えたウィノグランドは、漠然と大学で絵画を学びはじめるが、友人に学校の暗室に連れていかれたのをきっかけに、わずか2週間で絵画をやめ、写真に引き込まれていく。49年には、アレクセイ・ブロドヴィッチのワークショップに奨学生として籍を置き、51年からはフォト・エイジェンシーの非常勤記者として働きはじめる。フォト・ジャーナリストとしての仕事をするかたわら、55年の『ファミリー・オブ・マン』展(ニューヨーク近代美術館、以下MOMA)に出品するなど徐々に発表活動を行うようになり、フォト・ジャーナリズムが翳りをみせはじめる60年頃から、表現としての写真を明確に意識化していった。その後のウィノグランドの活動はよく知られたものだろう。『フォトグラファーズ・アイ』展(MOMA、64年)、『コンテンポラリー・フォトグラファーズ』展(ジョージ・イーストマン・ハウス、66年)、『ニュー・ドキュメンツ』展(MOMA、67年)など多くの企画展に選出されるとともに、大学やワークショップで教え、同時代の写真表現に大きな影響を与えていった。  しかし単純に考えて不思議なのは、生涯に渡って簡明な写真行為を反復したのみのようにみえるウィノグランドが、なぜかくも重要視されてきたのかということだろう。たとえば彼は、まとまった作品としては『アニマルズ』(69年)、『ウィメン・アー・ビューティフル』(75年)、『パブリック・リレーションズ』(77年)、『ストック・フォトグラフス』(80年)の四冊の写真集を残しているが、それらはいずれもいわば題名どおりの写真が収められているだけであり、それまでの伝説的な写真家が残したようなアメリカの記念碑的なものではない。
 ウィノグランドはあるとき、スナップ・ショットという分類を拒みつつこのようにいっている。「どのような機材が使われようと、その時々で必要とされる機材がいかに違っていようと、制作の過程自体はいつも同じである。その過程とは、知覚(見ること)と、見ることの描写(記録を作るためにカメラを操作すること)である」("THE SNAPSHOT" APERTURE)。先の小文での機械的過程の強調、またこのような制作の過程の認識は、いっけんありふれた写真観にすぎないようにみえる。しかし、彼の写真行為にこれらの認識を照し合せてみたとき浮び上ってくるのは、ウィノグランドが制作の過程そのものを反転していることである。つまり、彼にとって知覚とは、写真行為に先立って行われるものではなく、写真行為の最中でのみ行われるものだった。従来の写真観が、表現行為の内部に写真の機械的自動性をいかに独自性として位置づけるかをめぐってきたとすれば、ウィノグランドは、機械的自動性の内部に表現行為そのものを規定したのだった。彼にとっての写真の独自性とは、問いの立て方そのものにあった。問題は写真の機械性の意味にあるのではなく、その用法に属すべきことがらだったのである。
 また、「何が撮られたのかということが写真なのではない。別の何かが写真なのだ。それは、あるものが別のものに変わることにかかわる。…4つの縁をつけただけで変化が起こる。新たな世界が作られるのだ」と語ると同時に、機材について問われたとき「私自身さ」と答え、「時々、自分が機械工のように思える。私はただ写真を撮るだけだ」("VISION AND IMAGES" RIZZOLI)というウィノグランドにとって、変化とは当然、彼自身の身体をも孕んだものであった。死の前年、「なぜ写真を撮るのか」という問いに答えて、彼はこういっている。「どう答えたらいいのか。位置づけるとしたら、私自身から完全に抜け出すということかもしれない。それは、存在しないことに近づく早道なのだ。それがベストであり、私が引きつけられていることだと思う」("WINOGRAND" MOMA)。
 このような彼の写真行為に生じているのは、自己であるところの身体に、まさにそれとは異なる働きを担った独自な身体が孕まれてしまったような体験だろう。「写真になったとき世界がどのように見えるかを発見するために私は写真を撮る」。これはウィノグランドの最も有名な言葉の一つだが、この言葉の中には、写真表現をカメラという機械と彼自身の身体との関係そのものから規定していく姿勢が簡潔に凝縮されている。そして、こうした彼の写真行為によって、写真のもちうる意味の配置にも大きな変化が孕まれたように思われる。それは、写真の現実性がたんなる世界のさまざまな現象の再現にではなく、「文字どおりの描写のイリュージョン」に参入する契機として見出されたことにある。これに伴ってウィノグランドが端的に体現したことは、それを描写するか否かにかかわらず、社会関係としての身体が写真行為をつうじて社会関係の全体的な編成と対応していること、しかもそこでは、現実の社会が長らく基礎づけとしてきた個体としての身体の同一性が動揺しているということにほかなるまい。
 機械と身体の関係は、古くはサイバネティックス、今日ではサイバー・メディア、ヴァーチャル・リアリティなど、情報モデルや生物モデルに基づくさまざまな言葉によっていいかえられている。また現在では、写真を用いてそれらに言及する表現も数多い。しかし、それらは、高度情報テクノロジーを身体の同一性の新たなヴィジョンとして描いてはいまいか。あるいはそれとは対称的に、写真行為を身体の同一性への回帰を保障するモデルとして再び捉えようとしてはいないだろうか。今、ウィノグランドがけっして語らなかったが明確に示した地点において問われなければならないのは、このようなことではないだろうか。