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[二十世紀の写真家〜その過程と軌跡4:“死の人間化”…R・メイプルソープ/日本カメラ1993年4月号:146-147]


 1989年3月9日、70年代に登場し、80年代に一躍写真表現の寵児となった一人の写真家が死んだ。
 ある者は彼の完璧主義を指摘し、ある者は作品の美しさの絶対的な強度を語り、またある者は彼の作品に潜む死の影を見たという。いずれにせよ80年代に、これほど多くの者が好んで作品に眼を向け語ったのは、42歳、エイズでこの世を去った写真家――ロバート・メイプルソープ(Robert Mapplethorpe)のほかにいないだろう。メイプルソープは写真と自分の関わりについてこういっている。
 「私は写真家になるという意志などまったくないままに、プラット美術学校で絵画と彫刻を学んでいました。私にとって写真はただ単純に自分の主張を伝える伝達手段だったのです。だから写真に対してあまり純粋なアプローチだったとは言えない。最初は他人が作ったものを素材として撮っていました。…ポラロイドを使い始めたことによって、素材も自分のものだと感じられるようになったのです。写真に深く関わるようになってからは、写真の純粋さを追求するようになりました。というわけで、全くそのつもりもないのに私は写真家になってしまった」(『deja-vu』No10、廣井初美訳)。
 写真表現でもっとも注目された作家が、そのつもりもなく写真家になってしまったということ、これは単純にいって不思議なことではないだろうか。ここには、写真表現の問題というよりむしろ、その背景となる表現の条件の問題が刻まれているようにみえる。そしてこの問題には、メイプルソープが関わった時代の文化状況が密接に絡まっているといってよいだろう。
 彼が写真表現を意識化していった時代は、ポップ・アート以後と形容されるだろう時代である。近代芸術の諸潮流の特徴は、様式の時代から主義の時代へと変容していったことにある。しかし、ポップ・アートの出現は、例えばダダやシュルレアリスムのような潮流と同じ視点では語りきれない。「ポップ・アートが主としてイギリスとアメリカに、そして群を抜いてロンドンとニューヨークに繁茂したのは、偶然ではない」と語る、美術評論家のエドワード・ルシー・スミスは、次のようにいう。
 「ポップ・アートの創造に必要な状況は、ポップなライフスタイルである。あるいは、むしろポップ・アート自体が、ポップなライフスタイルの副産物、ほとんど偶然から生じた結晶体であるといえる。ポップに関して“スタイル”という言葉が使えるのは、唯一、この意味でしかない」。ゆえに、ポップ・カルチャーが深く浸透し定着していることが、ポップ・アートの創造の必要条件になる。「ポップ・カルチャーは産業革命と、それに続く一連の工業技術の革命の産物である。ファッションと民主主義と機械を寄せ集めた結果、生じたものの一部がポップ・カルチャーである」(ニコス・スタンゴス編『20世紀美術』、宝木範義訳、PARCO出版)。
 周知のように、このような性質を持つポップ・アートをもっとも徹底して体現したのは、手仕事を放棄しながら、機械的過程を制作を取り込み、同一の図像を幾度も繰り返した作品で知られるアンディ・ウォーホルである。ウォーホルは、「彼の生きている世界を支配する力と、完全に歩調を合わせることをやってのけた」(同前)。よく引かれる「私がこの方向で絵を描いている理由は、機械になりたいと欲しているからであり、私が機械のように何をしようとも、それは私が欲してすることなのです」、「インタヴュアーは前もって僕から聞きたいことを言ってくれればいい。僕はその通りに答えるよ」といった彼の言葉は、ポップ・カルチャーを生きる作家達を根底的に規定する条件を何よりもよく示している。
 それまでの近代芸術において、その価値は、芸術と現実が切り離されることによって、芸術に独特の意味と力が与えられていたことにあった。現実を指し示すことは、現実と距離を置くことではじめて可能になる。この距離によって近代の芸術作品は、現実を批判する力を内包してきた。近代芸術の諸運動は、これによって少なくとも現実を否定する力だけは一貫して維持してきたのである。しかし、このことは同時に、芸術作品が疎外された個人の内面を反映するにすぎないという近代芸術の限界でもあった。つまり、ここでの作家達は原理的に、追い詰められて生き、しかも個々ばらばらの断片と化した世界をけっして越え出ることができない。
 ところがポップ・アートは、現実を現実として受け入れることからはじまる。ウォーホルは、パット・ハケットとの自伝的共著『ポッピズム』(高島平吾訳、リブロポート)の冒頭でこういっている。「ポップ・アートは内部を外にひっぱり出し、中に外部を押しこんだのだった」。ここで否定されるのは現実ではなく、疎外されるであろう個人であり、あるいは自由、内省、独創といった近代的個人にまつわる諸項目である。ウォーホルの先の言葉が、反語的でありながら結果的にいささかも反語となっていないのは、彼の言葉通りの実践に裏付けられているからにほかならない。
 ウォーホル以後、多くの作家が、このような現実との関わりの中で生きてきたと思われる。メイプルソープもまた、自身が「ぼくがそこ(ポップ・アート)から出てきたことは確かだな。ポップアートが最盛期のころ、美術学校に通っていたからね」と述べているように、そうした作家の代表的な一人である。彼はまた続けてこうもいっている。「ウォーホルは『なんでもアートになる』と言っただろう。それでぼくもポルノグラフィをアートにできたんだ」(『BT/美術手帖』89年6月号、木下哲夫訳)。この言葉と、「全くそのつもりもないのに私は写真家になってしまった」ことは、メイプルソープのライフスタイルの中で十全に符合している。この意味でメイプルソープは、ポップなライフスタイルの中で生れた写真家の典型であるといえよう。
 しかし注意しなければならないのは、メイプルソープがポップ・アート以後の現実との関わりを受け入れながらも同時に、現実と同義となった芸術を内面化した場所にリアリティを見出そうとしたことである。ウォーホルがごく初期に、現実を現実として受け入れるという表現論的転回を行い、その後そこから演繹的に、まさに「機械のように」展開なき作品を展開したのに対して、メイプルソープが行ったのは、「ポルノグラフィをアートに」することからはじまり、現実としての芸術を帰納的に内面化していくことであった。幾何学的と呼ばれる額に収められた、同性愛、SM、裸体、肖像、花、静物を対象にした彼の写真作品の展開は、ここからはいささかも逸脱することがなかった。簡単にいってしまえば、メイプルソープは現実を美的に表すことにリアリティを見出したのである。彼を完璧主義者であるとみるなら、その理由はこの点のほかに求められるべきではない。また、このポップ・アート以後の表現の条件を同語反復的に内面化していく完璧主義者にとって、要するに美しいものは理由もなく美しいのであり、それゆえ、彼の作品の美しさは絶対的な強度を持つことにもなったのである。こうして考えるとき、今日根拠なき選択を正当化するために誰もが好んで語る言葉を、メイプルソープが何の葛藤もなく次のように集約して述べていることは興味深い。
 「私にはすごく直感力があるんです。それは一種の魔術みたいなもので、私の場合人に対しても状況に対してもそれが働く。…私はただ単に、人から、あるいは花から、私独自の何かを引き出しているだけなのです。どうしてなのか分かりません。でも、分からないことは面白いですからね」(『deja-vu』No10)。
 よく知られているように、ウォーホルは「将来、誰もが15分間は世界的に有名になれるだろう」といっていた。15分間を同語反復的に内面化していったメイプルソープは、エイズによって死ぬことでそれをついに永遠に完結したものにした。87年に死んだウォーホルが、依然として不可解で謎めいているのと対照的に、メイプルソープの死は、その完結性においてきわめて英雄的かつ象徴的な効果を写真表現に与えたといってよい。これによって、もっとも力をえたのは批評であろう。なぜならその死は、ポップ・アート以後の、諸々の無根拠な選択によって導かれていた言説の消極的な両義性を、いっきょに美的に正当化する決断の契機として働いたからである。いわば死の人間化とでも呼ぶべきこの批評の自己正当化は、自由、内省、独創といった諸項目を問うことなしに幼稚化し、自らの言説の内に蘇生させた。ポップ・アート以後の表現の条件を自己忘却していくこのような批評が、この決断の観念論的倒錯に気づくこと、それがメイプルソープの死以後の表現の条件に刻まれた問題にほかならない。