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[二十世紀の写真家〜その過程と軌跡3:表現の<共犯関係>…リーフェンシュタールとシャーマン/日本カメラ1993年3月号:130-131]


 19世紀から20世紀にかけての表現でもっとも特徴的なことは、表現の多くが不特定多数の人々を対象としながら普及してきたことであろう。
 この時代以後の表現活動は、多数の要因が互いに複雑に結びつきながら、一つの全体を形成してきた。芸術が階級的保護を失い、不特定多数の人々のなかに投げ込まれること、それは以前にも増して政治的効果が表現の重要な問題として浮上してくることでもある。たとえば、このような時代において政治的効果ということが苛酷にあらわれた例として、ナチズムの時代にレニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)が製作したドキュメンタリー映画を思い浮かべることができる。
 1902年、ベルリンに生れたリーフェンシュタールは、父親の強固な反対にもかかわらず10代からダンサーを志し、20代に入ってからは女優としても活動するようになった。その後、映画に専心することを決意した彼女は、29歳で『青の光』を監督・主演し注目されるようになる。この頃、ヒトラーの演説に魅了され、手紙を書き近づきになった彼女は、党大会の記録映画を依頼され、33年に『信念の勝利』、翌年に『意志の勝利』、36年にはベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』の製作を請け負う。
 戦後、これら一連の活動とナチズム、ヒトラーとの関係が問われたリーフェンシュタールは、非ナチ化審査機関で「ナチの政治的責任なし」と証明されている。リーフェンシュタールの自伝『回想』(椛島則子訳、文藝春秋)によれば、判決理由の概略は次のようなものであった。――リーフェンシュタールとヒトラーとの親密な関係を推察させる証人、証拠はなかった。オリンピック映画は国際的要件であり、有罪を方向づける事実構成とはならない。党大会映画の以頼の承諾を彼女は拒絶したが、ヒトラーの有無を言わさぬ決定により実行に移された。彼女にナチ党のための宣伝活動として仕事を遂行する意図、意識はなかった。彼女が課せられた課題は宣伝映画ではなく、ドキュメンタリー映画の製作であった。映画がのちにナチズムの効果的な宣伝手段となり、党から十分に利用されたことを、製作者の罪に帰することはできない――。
 興味深いのは、リーフェンシュタールがこれとほぼ同じ内容のことを何の矛盾もなしに述べていることである。たとえば『信念の勝利』について彼女はこういっている。「私が宣伝映画を作ったという非難は耳にたこができるほど聞いてきたが、これは間違いである。この映画はドキュメンタリー映画であって、宣伝映画とはまったく違う。誰ひとりとして、党でさえ私にどのような映画を製作すべきか指示したことは一度としてなかった。それに、カメラ用にあらかじめセットされた場面は一つもない。すべて私の自由意思で撮影できた、わずか一万二千メートルのフィルムは全部ドキュメントで、党大会の開催中、現場で撮影されたものばかりである。仕事中宣伝のことなど一瞬たりとも考えたことはなかった」(前掲書)。
 リーフェンシュタールのドキュメンタリーの特色は、膨大な技術スタッフを率いてあらゆる角度からの場面を撮影し、リズムを重視した編集によってモンタージュすることにあるといわれている。したがって撮影はある意味で素材作りにすぎず、構想と編集こそが彼女のドキュメンタリーの重要な要件となる。戦後のインタヴューで、「『オリンピア』の編集は撮影中に計画されたのではなくて、撮影以前にプランはできていたのでした。すべては私の頭の中にあり、私はすべてをヴィジョンのように扱いました」と述べている彼女は、映画監督という仕事について次のようにいっている。「全体としての確かな様式感覚こそが、映画監督の持つべきいちばん重要なことである。もうひとつ映画監督に大切な条件は、彼が力学と構成とリズムに対する感性を有していることである。…一連の映像は編集次第で百通りにも変更できる」(同前)。
 このように政治的にも無知で、作者の自己意識によってのみ彩られて作られた映画が、結果的に非常に有効なナチス・ドイツのプロパガンダとして機能したこととは、どのようなことだろうか。リーフェンシュタールの映画をとおしてみられるのは、表現そのものは必ずしも現実を反映するものではなく、むしろ効果としての現実性をイデオロギーの中に生み出すものであることであろう。
 今日においてイデオロギーと呼ばれているものは、種々の統治の形式それ自体や支配する側のうちに見出されるものではなく、逆説的ではあるが、一般的に政治的とはみなされていない諸活動の深層的特質としてあらわれる。つまり今日のイデオロギーとは、意識化され言語化された政治的教義のことではなく、生きられた経験について個人個人がある種のイメージを形成するときの、表現の体系いっさいのことであると考えなければならないだろう。
 80年代には、リーフェンシュタールが役者から表現者に変わっていったのとは逆に、表現者から役者に変わっていくことによって注目される作家が登場する。B級映画の役者や有名な肖像画の人物に扮する写真作品を作り、ポストモダニズムにおける代表的作家として数えられているシンディー・シャーマン(Cindy Sherman)は、あるインタヴューで次のような問答を演じている。「批評家は作品の見方としてある特殊な方法を提示したわね。…伝統的な写真とは対照的に、あなたの写真は意識的に構成され、操作された虚構だという指摘。つまりあなたの作品では写真の『真実』を逆手にとって利用している。あなたの真の姿を表わす代わりに、自己の虚構性を暴露している。その虚構性とは、批評家たちにいわせれば、一連の断続的な表象、複写、贋造である。そのころこうした議論を読んで納得したかしら」――「いまその話を聞いてよくわかるのは、あなたがそうした記事の要点をわかりやすくいい換えてくれたからだわ。…わたしは作品をつくることだけに興味があって、それを分析するのは批評家に任せることにしているの」(『アートワーズ』木下哲夫訳、スカイドア)。
 このような作品の性質と態度によってシャーマンが形成するのは、一方でそれがオリジナリティ、アイデンティティといった項目を表面化していることで表現の制度を批判し揺るがせており、他方ではその虚構性によって現実との関係から自由な表現となっているとみなすような視点が混在する言説空間である。じっさい、自身の作品は直観によって作られ、理論には関心がないと繰り返しいうシャーマンの言葉には、リーフェンシュタールの自分が作りたいように作ったという言葉と同様、裏も表もないに違いないだろうし、そのことによって、いっけんシャーマンは自由な表現を獲得しているようにもみえる。とはいえ、シャーマンの表現にしても、イデオロギーの使用からはけっして自由ではありえないはずである。なぜなら、シャーマンの作品自体が写し出しているように、そこで前提とされているのは、まさに社会や文化、表現において文脈化された歴史にほかならないからである。とするなら、シャーマンの作品もまた自由の抑圧の例外ではありえず、そこに権力の存在を認めないことは不可能である。
 虚構性のなかに自己の世界をみながら、「すべては私の頭の中にあり、私はすべてをヴィジョンのように扱いました」といったリーフェンシュタールは、60歳を過ぎて写真家に転進した後も、その自己のヴィジョンに誠実であるがゆえに何の矛盾もなく、アフリカの部族を写した『ヌバ』や水中写真『珊瑚の庭』、『水中の驚異』といったドキュメンタリーを作り続けることができた。直観によって自己を虚構の世界のなかにみるシャーマンは、意識化や言語化を遠ざけつつ、文脈化された歴史を恣意的に行き来するだろう。だが忘れてはならないのは、そのようなイメージが生み出しているものこそが、げんに生きられている経験としてのポストモダニズムのイデオロギーにおける現実性であり、イメージ化され一般化された表現の体系としての言語性であるということである。
 『ポストモダニズムの政治学』(川口喬一訳、法政大学出版局)の著者リンダ・ハッチオンもまた、ポストモダニズムにおける代表的作家としてシャーマンを捉える批評家の一人だが、彼女はその著書の冒頭で、ポストモダニズムの実践についてこういっている。「最初から認めておかなければならないことは、これが奇妙な種類の批判であるということ、しかも、みずからの〈共犯関係〉によって権力と支配体制とに結びついた批判であるということだ」。だが、ポストモダニズムの現実性がみせる奇妙さとは、むしろそれが、批判によって自ら権力と支配体制とに結びついた共犯関係だということにあるのではないだろうか。