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[影響・引用・固有名詞:特集〜引用の快楽/BT・美術手帖1993年3月号:68-84]


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 「バロウズ家の暖炉、1936年」と題された写真を見てみよう。
 炉棚は紙でつくられた飾りでカヴァーがかけられ、その中心には皿が、両端にはふたつの花瓶が対称的に載っている。暖炉の前に据えられた卓には、やはりクロスがかけられ、その上には花瓶や紙包みが置かれ、卓の下段にはかかとの汚れた革靴が載っている。暖炉の後ろの壁には、女性の肖像画付きのカレンダーが、そしてその左右には八角形や楕円の縁に収められた肖像が掛けられており、また紙を剥がした跡やペンキで残された手形がある。
 この写真を撮った写真家――ウォーカー・エヴァンズ(Walker Evans)について、イアン・ジェフリーは『写真の歴史』のなかで、こう評している。「エヴァンズは特定の存在というものに喜びを覚えていた。我々はどんな事物もそれを隔離して認識したりはしない、それ以外の事物との関連においてのみある事物をそれとして認識するのだということである。(中略)真正面から撮影されたこうした写真は、人間の生き方のひとつの様相について語ってくれる正確なコラージュとなっている。けれどもエヴァンズはある事実の裏付け以上のものを示しているのだ。細心に整序・配置されたものすべてを彼は探し求め、それを強調していたからである。エヴァンズが保存の手を加えたありきたりな対象群は、大切にされてきた遺物のごとき風情をたたえている」[1]。
 1903年生まれのエヴァンズは、30年を前後して本格的に写真を手掛けはじめた。農業安定局による南西部農業地帯の窮状の写真調査スタッフを35年から勤めるが、すでに自身のスタイルを確立していた彼は、資料部長のロイ・ストライカーとあらゆる点で反りが合わず、結局37年には解雇されてしまう。しかし、38年にニューヨーク近代美術館で展覧・出版された『アメリカン・フォトグラフス(American Photographs)』、そして、作家ジェイムズ・エイジーとの共作で41年に出版された南部の貧農のドキュメント『有名な人たちをいざ讃えん(Let Us Now Praise Famous Men)』は、今日ではドキュメントの原点や古典として数えられている。
 エヴァンズにとっての写真行為は、被写体を写真によって形象化し記述するなかに、自身がみるアメリカ社会・文化の意味を織り込むことにあった。エヴァンズによって形づくられた、複雑で多義的な意味を内包しうる画像構成の統辞法は、アメリカにおける写真の機能に、ドキュメントという新たな相を切り開いていくことになる。これによってエヴァンズは、その精神性において、またそれと不可分な形象化の方法において、アメリカの写真家のなかで、だれよりも深くその影を現代写真に落とす伝説的・神話的存在になっていったのである。このような存在であるエヴァンズが、後続する写真家に与えた影響とはどのようなものなのだろうか。

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 自身が写真家でもある写真批評家のトッド・パパジョージ(Tod Papageorge)は、多くの論者が現代写真のはじまりとみなすロバート・フランク(Robert Frank)の『アメリカ人(The Americans)』が、唐突にあらわれた写真表現ではなく、ウォーカー・エヴァンズの『アメリカン・フォトグラフス』を参照することによってつくられたものであることを強調している。パパジョージによる『ウォーカー・エヴァンズとロバート・フランク:その影響に関する試論』は、両者の写真を対比しつつそのことを実証的に検討した写真集だが、そこでは「フランクはエヴァンズの仕事から、アメリカでなにを写真に撮るかという手引きだけではなく、見たものをいかに理解すべきかというヴィジョンをも見出していた」[2]という視点から、構図の類似性にとどまらず、被写体への眼差しの類縁性をも含めて例証されている。またパパジョージは、『アメリカン・フォトグラフス』と『アメリカ人』のアメリカでの初版本を比較して、装丁やレイアウト、写真の掲載点数などの類縁性についても述べている。この観点からふたつの写真集を見るとき、とりわけ『アメリカン・フォトグラフス』の前半50点と、『アメリカ人』の、アメリカを動き回り集められたいっけん雑多な写真を構成していく統辞法はきわめて類同的だといえるだろう。
 スーザン・ソンタグは、写真がホイットマン流の主張と縁を切って以来、「フランクとアーバスの、また彼らの同時代や後輩の多くの言外に含まれた意図は、アメリカが西洋の墓場であることを示すことなのである」という。この見解の一部に沿うならば、ダイアン・アーバス(Diane Arbus)が撮ったポートレイトは、ある意味で『アメリカン・フォトグラフス』の建物の写真のみで構成される後半37点と類同的だと考えることもできるだろう。「英雄的な抑揚はなくとも、エヴァンズの計画はやはり美と醜、貴と賤の間の差別を平等にするというホイットマンのそれからでている。(中略)エヴァンズのカメラは1930年代初期のボストンのヴィクトリア朝風建物の外観にも、1936年のアラバマ州の町の大通りに並ぶ商店の建物にも、同じ形体美をもたらした」[4]。いうまでもなくこれは、エヴァンズの写真の正面性が導く「没個性的な肯定」(ソンタグ)によるところが大きい。アーバスの主題はすべて等価であるとみなすソンタグによれば、「奇型人、狂人、郊外に住む夫婦、ヌーディストたちを平等に扱うということは強力な判断」であり、アーバスの写真では「異なるものの間の同一性(ホイットマンの民主的展望)を示すかわりに、だれもが同じに見えるように示されている」[5]。アーバスの正面からのポートレイトも、美と醜、貴と賤の間の差異を写真によって等質化するという点においては、エヴァンズの写真の正面性と同種の機能によっているといってよい。
 ところで、ここでみたような影響とは、どのような関係性に基づくものなのだろうか。その類同的な関係は、あるいは引用と呼ぶべきものでもあるのだろうか。このことを考えるためには、影響という関係性におけるウォーカー・エヴァンズという名に立ち戻ってみる必要があるだろう。

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 美術にせよ、文学にせよ、文化についての記述のなかで固有名詞に出会わないことはほとんどないといってよいだろう。むろん写真においても、この事情に変わりはない。ウォーカー・エヴァンズという固有名詞は、エヴァンズという存在を直接に指示する。しかしその一方で、固有名詞によらずに、たとえば「アメリカのドキュメントの写真家」という記述によってエヴァンズという存在を指示することもできる。むろんこの場合「アメリカのドキュメントの写真家」という記述は同時に多くの該当者を指示してしまうので、「農業安定局での活動によって、『バロウズ家の暖炉、1936年』などの優れたドキュメントを発表した、1903年生まれの写真家」というふうにどんどん記述を詳しくし、エヴァンズ以外には該当者がいないようにしなければならない。
 目の前にいない者を指示するためには、このように、固有名詞による方法と、対象が有する諸性質を記述し、それらの諸性質を有する対象として指示する方法が考えられる。一般的に、固有名詞は、いっさいの内包をもたない対象の名にすぎず、意味することなく指示するシニフィエなきシニフィアンであるという点で特殊であると考えられている。これを踏まえるならば、記述することなしに指示する固有名詞による方法と、諸性質をどこまでも詳しく記述し対象を指示する方法とは、まるで対極にあるものだといってよいだろう。さらに、固有名詞は指示を固定するのに対し、諸性質をどこまでも詳しく記述する方法は指示を固定することはできない。エヴァンズという存在以外には該当者がいないようにどんなに詳しく記述したとしても、この方法では原理的にエヴァンズその人を固定することは不可能である。エヴァンズその人を固定しうるのは、ウォーカー・エヴァンズという固有名詞に限られる。このことは、ここまでの文章で仮にウォーカー・エヴァンズという固有名詞が一度も登場しなかった場合を想定してみれば明らかだろう。
 こういったことを踏まえるとき、影響という関係性をみることとは、端的にいって、両者に共通する性質を可能なかぎり拾い上げ記述しながら、最終的にはある位階関係に沿ってふたつないしはそれ以上の固有名詞による指示を固定し、そこに不可逆的な関係をみることにほかなるまい。引用が性質の記述の可逆的な交換に基づく、対象の固定をずらす方法であるとするなら、最終的に線状的な時間軸(歴史)に固定された作者の不可逆的な関係を見出す影響という関係性は、いっけんそうみえながらも根底的に引用という方法とは一線を画しているというべきだろう。私たちが、エヴァンズの影響としての統辞法をフランクに、正面性をアーバスに見出すことがあっても、その逆に、フランクやアーバスの影響としての統辞法や正面性をエヴァンズに見出すことはけっしてないことは、その証しである。

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 諸性質をどこまでも記述する方法は、現実的にはエヴァンズを指示しえたとしても、他方で可能的に、かならずしもエヴァンズではなく、フランクを、アーバスを指示する世界を立ち上げる。そして、私たちが引用という方法から導かれる場面に立ち会うのは、この可能的な世界にほかならない。
 たとえば、エヴァンズとエイジーが取材に訪れた1936年にアラバマ州に生まれ、もともと絵を描くための参考資料のために写真を撮っていたウィリアム・クリステンベリー(William Christenberry)が、60年に再版された『有名な人たちをいざ讃えん』に触発され、エヴァンズが撮影した場所を追いながら再撮影をはじめたとき危惧したことは、自身の仕事がエヴァンズの引用とみなされることであった。もし、クリステンベリーの仕事が引用という方法に基づくとみなされるなら、それはエヴァンズが有する諸性質の記述を、エヴァンズという固有名詞による指示によって固定されない場所にずらし、変形するパロディ化の行為となってしまうだろう。しかし実際には、61年にクリステンベリーがエヴァンズに会った際に好意的な評価を得、72年の初の個展にはエヴァンズからの賛辞が贈られ、また、73年のエヴァンズのアラバマ州再訪の案内役を務めるなどの親交によって、クリステンベリーが80年代を前後して大きく評価されはじめるころには、エヴァンズを原点とするドキュメンタリーを正統に受け継ぐ者のひとりとしての位置づけが与えられていた。
 同じような事情が、じつはフランクやアーバスにもみられる。発行当初酷評にさらされたといわれるフランクの『アメリカ人』は、出版前にその一部が『U.S.カメラアニュアル』に掲載された際に、かねてから交流のあったエヴァンズからの絶賛を受け取っていた。また、アーバスもやはりエヴァンズと交流をもっており、エヴァンズが推薦人に名を連ねた三度目の申請でグッゲンハイム奨学金を得ている。

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 さて、80年代には、クリステンベリーの危惧そのものを目的化して作品を制作した美術家が登場した。引用という方法に基づき、エヴァンズの写真を複写してそのまま自らの作品とした、シェリー・レヴィーン(Sherrie levine)である。たとえば、「ウォーカー・エヴァンズにならって」と題された彼女のシリーズのなかの「バロウズ家の暖炉、1936年」を複写した一枚と、エヴァンズの一枚「バロウズ家の暖炉、1936年」を、どこまでも詳しく記述することで作者という存在を指示しようとするとき、そこに立ち現われるのはまさしく可能的な世界である。そこでは、エヴァンズという存在やレヴィーンという存在は、まさに恣意的に指示されるほかなく、どれほどその写真を詳しく記述しようとも、指示を固定するのは不可能である。
 リンダ・ハッチオンは『ポストモダニズムの政治学』のなかで、レヴィーンの仕事についてつぎのようにいっている。「シェリー・レヴァインは、男性作家の有名な芸術写真をもう一度写真に撮ることによって、自己表現、真正性、独創性(それに所有権に対する資本主義的信仰)についてのロマン派的/モダニスト的概念に異議を申し立てる。しかしながら、彼女を批判する者たちがこぞって言っているように、彼女は『芸術としての写真』というものを破壊し、それに付随するさまざまなイデオロギー的思い込みを破壊してはいるけれども、彼女自身の表象においてやはり『芸術写真』という概念と共犯関係にあるのである」[6]。
 レヴィーンが、ロマン派的/モダニスト的概念における「芸術写真」に異議申し立てを行なっているとすれば、それは方法化された引用という概念によってであろう。とするなら、そこで行なわれることは、自己表現、真正性、独創性といった項目を問いの爼上にのせ破壊するというよりも、そのような問いが成り立つ場面の意味そのものを超越論的にニヒリズムによって空洞化することである。しかしながら、レヴィーンもまたなんらかの位置づけをもつ作家であるならば、ニヒリズムの自己否定を軸に自らの固有名詞によって指示を固定するほかない。レヴィーンが「ウォーカー・エヴァンズにならって」で行なったことは、ウォーカー・エヴァンズという固有名詞が本質的には空虚なシニフィアンであることを表面化するとともに、空虚なシニフィアンとしてのシェリー・レヴィーンという名を意識化させ、自らの名と作品の位置を固定することである。それはそもそも、「芸術写真」という概念と共犯関係を結びながら「芸術写真」を破壊する両義的な行為などではなく、ウォーカー・エヴァンズの写真を複写したシェリー・レヴィーンというふたつの固有名詞の最大限の効果に基づく、線状的な時間軸(歴史)に固定される作者の不可逆的な関係というイデオロギーに沿った仕事にほかならない。
 引用という概念について考えるとき、私たちはそれをすぐさま、自己表現、真正性、独創性あるいは作者、作品、歴史といった項目を揺らがせる契機として捉えがちである。だが、引用という概念を方法化することで、たやすくロマン派的/モダニスト的概念を支える文脈を乗り超えうるように考えるならば、固有名詞という空虚なシニフィアンはただちに力の位階関係によって満たされるほかないだろう。

[1]イアン・ジェフリー『写真の歴史』伊藤俊治・石井康史訳、岩波書店、1987年(原著1981年)、p.238-239
[2]Tod Papageorge"Walker Evans and Robert Frank:An Essay on Influence"Yale University Art Gallery,1981,p.1.
[3]スーザン・ソンタグ『写真論』近藤耕人訳、晶文社、1979年(原著1977年)、p.56
[4]前掲書、p.37
[5]前掲書、p.54-55
[5]リンダ・ハッチオン『ポストモダニズムの政治学』川口喬一訳、法政大学出版局、1991年(原著1989年)、p.23


作家解説


[ウィリアム・クリステンベリー(William Christenberry)]
 クリステンベリーは1936年に、エヴァンズとエイジーが取材に訪れていたアラバマ州ヘイル郡の北に隣接するトゥスカルーサ郡に生まれた。祖父母が住むヘイル郡は、クリステンベリーが幼い頃からなじみのある土地でもあった。アラバマ州立大で美術を学び、絵画に用いるために家にあった簡単なカメラで写真を撮っていた彼は、再版された『有名な人たちをいざ讃えん』を見て、エヴァンズと同じアングルから写真を撮ることを試みる。
 大学卒業後、1年間ニューヨークに滞在したクリステンベリーは、そこでエヴァンズと出会う。エヴァンズに慎ましく自分の写真を見せた彼は、「君の小さなカメラは、完全に君の目の延長になっている。君は拠って立つべき場所を精確に知っている。僕は君にこの写真をシリアスに捉えることを勧めるよ」との言葉を受けとり、自分の撮っていた写真を意識化するようになる。以後この二人の親交は、75年にエヴァンズが亡くなるまで続いた。その一例が、アラバマ州立大がエヴァンズにずっと求めていたヘイル郡再訪が、ようやく七三年にクリステンベリーの同行を条件に実現されたことだろう。このときエヴァンズが携えたのは、ポラロイド・カメラのみであった。
 クリステンベリーは絵画の他に、収集した看板などのオブジェによるインスタレーションなども試みており、74年からはそれに飽き足らず、表現の主題にしてきた建築物そのものの模型の制作も行っている。また、77年からはリー・フリードランダーなどの勧めに従って、8x10インチの大型カメラを用いての撮影を行い、70年代後半から80年代の写真表現の大きな潮流になる「ニュー・カラー」の文脈から注目されるようになった。

[シェリー・レヴィーン(Sherrie levine)]
 シェリー・レヴィーンは1947年、ペンシルヴェニア州ヘーゼルトン郡に生まれ、ウィスコンシン州立大で学士号と修士号を得ている。
 70年代の後半から、作者、再現、オリジナリティといった項目を主題に制作をはじめた彼女は、77年にダグラス・クリンプ企画の展覧会『ピクチュアズ』(ニューヨーク、アーティスツ・スペース)に出品、注目される。80年代前半には、エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナー、エドワード・ウェストン、ウォーカー・エヴァンズなど、巨匠とみなされている美術家・写真家の作品を複写、そのまま自らの作品としたシリーズを発表した。また、ヴィレム・デ・クーニング、エゴン・シーレなどの作品をもとにしたドローイング、ピエト・モンドリアン、ホアン・ミロなどをもとにした水彩画も制作、その後は、抽象絵画におけるミニマリズム、シュルレアリスムのスタイルを扱った作品や、コミック・ストリップのキャラクターを扱った作品などを制作している。
 つねに男性作家の作品を借用・引用してきたレヴィーンは、次のようにいっている。「女性芸術家としてどこに自分を位置づけることができるか。私がやっていたことは次のことを明白にすることであった。つまり、芸術家が過去の芸術家に対して持つオイディプス的関係はどのように抑圧されるのか。女としての私が、どのように男性の欲望を表象することが許されるのか」。このように自身を規定する彼女とその作品は、80年代の表現におけるポストモダニズム、フェミニズムの批評のなかで幾度となく言及され、その言説に重要な場面を提供しつづけている。

[ダイアン・アーバス(Diane Arbus)]
 1923年、ニューヨーク州ニューヨーク市に生れたダイアン・アーバスは、エシカル・カルチュア校とフィールドストン校で学び、41年、18歳でアラン・アーバスと結婚(59年に離婚)する。『グラマー』、『ヴォーグ』などで夫とともにファッション写真家として活躍するが、50年代終りに学んだニュー・スクールのリゼット・モデルに影響を受け、風変わりで異様だと見られていた、いわば禁じられたものを被写体に写真を撮りはじめる。
 またこの頃アーバスは、彼女の最も信頼する助言者になるマーヴィン・イズラエルに出会う。『ハーパーズ・バザー』のアート・ディレクターなども務めたイズラエルは、様々な人間にアーバスを紹介した。ヘレン・レヴィットやロバート・フランクがウォーカー・エヴァンズに会ったことが、彼らの仕事の大きな転機になったことを知るイズラエルは、六十年代初頭にアーバスとエヴァンズを引き合わせている。エヴァンズの仕事を尊敬するアーバスは、はじめ自分が気に入られないことを恐れていたが、しばしばエヴァンズの家を訪れる関係になった。グッゲンハイム奨学金に2度申請したものの却下されていたアーバスは、推薦人にエヴァンズが名を連ねた3度目の申請で63年、アメリカの儀式、慣習、競技会、祭りの探求をテーマに奨学金を得ている。
 66年に再びグッゲンハイム奨学金を獲得、その後の写真表現に大きな影響を与えたニューヨーク近代美術館の『ニュー・ドキュメンツ』(67年)にゲリー・ウィノグランド、リー・フリードランダーとともに選出され、注目される。71年に自殺、72年にニューヨーク近代美術館で開かれた回顧展は記録的な入場者を集め、現代写真の伝説的な存在になった。