texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[黎明期写真に潜む不自然さとは:「光の記憶~19世紀写真展」/アサヒグラフ1993年12月3日号:101]


 東京・新宿のI.C.A.C.ウェストン・ギャラリーで『光の記憶-19世紀写真展』が開かれている(11月30日まで)。写真発明のパイオニアの一人であるイギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タボット。エジプトの古代建築を撮影したフェリックス・ティニャール、歴史的建造物委員会に任命されフランス建築史上の遺産を撮影したギュスタヴ・ル・グレイなどフランスの写真家。クリミア戦争を撮影したイギリスのロジャー・フェントン。ヨセミテ渓谷を撮影したアメリカのカールトン・ユージン・ワトキンズ。展示されているのは、こうした19世紀の写真家13人による写真である。
 これら19世紀中葉の写真を特徴づけているのは、その多くが遠方の地の風景や出来事、あるいは失われゆく事物の記録によって成り立っていることだろう。しかし注意しなければならないのは、当時の写真による記録とは、今日のように自明化されたものでは決してなく、写真による「記録」という概念そのものが写真の誕生と同時に、19世紀にはじめて生じたものだということである。
 これについて美術史家のイアン・ジェフリーは述べている。「当時もそれ以後も、一つの発明としての写真とは、正確には自然が自己の映像(イメージ)を記録できるという能力の発見に他ならなかった」。そしてタルボットの写真を巡って、次のように言う。「写真は不可思議で、落ち着き先を見つけにくい混在物であった。結果的には工芸品的な、オランダ派絵画に似たものとなった。しかし、一方でこうした写真は生まれ出てきたものだった。そしてこの明白なパラドクスは必然的に黎明期の写真の主問題の一部となる」。
 それ自身が人工物でありながら、物事をいともたやすく自然に記録する写真という装置。この逆説を動力に、タルボット以後、異国・建築・戦争・景観など様々な対象を撮影した写真家達は、徐々にそれぞれ独特の修辞法を見出すようになる。写真による「記録」とは、この修辞法の呼び名に他ならない。また言うまでもなく、ここで生じている差異化と均質化の混在は、写真のみならず近代という時代に特徴的な逆説でもある。
 19世紀の写真による「記録」は、今日の私たちには「自然」なものに映るかもしれない。だが、この「自然」とは「記録」という修辞法によって私たち視点そのものが自然化されることにより構成された、人工的な産物であることを忘れるべきではない。なぜなら、19世紀の写真に潜む不自然さに着目することによってのみ、一見解消されたかのように見えている、今日の表現に孕まれた近代の逆説が照し出されるからである。