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[“写真"が浮かびあがらせた自然保護:「大自然のコンチェルト/アンセル・アダムス展」/アサヒグラフ1993年9月17日号:?]


 アンセル・アダムスは、アメリカを代表する風景写真家として、もっとも良く知られた一人だろう。タワーギャラリー(ランドマークタワー3F)で開かれている「大自然のコンチェルト/アンセル・アダムス展」(9月30日まで)では、彼が終生深く関わりを持ったヨセミテ国立公園の写真を中心とした代表作を展示しており、アダムスの写真表現の骨子に触れることができる。
 1902年、サンフランシスコに生まれたアダムスがはじめて写真を撮ったのは、両親とヨセミテ渓谷を訪れた14歳の時だった。以来、毎年ヨセミテを訪れるようになり、18歳からの4年間は、ヨセミテを国立公園として制定する運動をしていたシエラ・クラブのロッジの夏の管理人を勤めた。こうしてヨセミテの自然に引き込まれ、その一方でポール・ストランドなど近代写真の先達と出会っていく中で、はじめピアニストを志していた彼は、28歳の時、音楽よりも写真を選ぶことを決意した。またヨセミテは、写真館の娘で妻となったヴァジニアと出会った場所であり、長年に渡って主宰のワークショップを開催し写真を教えた場所でもあった。
 アダムスとヨセミテの関係は、こうしたことにとどまらない。34年からシエラ・クラブの役員を務めた彼は、ヨセミテ国立公園、ひいては国立公園制度の理念の擁護において、自然保護活動を熱心に繰り広げた。ロビー活動や、東奔西走して数々の講演をしただけではなく、国立公園局の職員をはじめ、大統領、閣僚、報道関係者、学者に膨大な私信を書き送った。写真と自然保護活動は、アダムスにとってまさに表裏一体のものであり、ヨセミテを中心としたこのような展開は、84年に他界するまで絶えることがなかった。
 アダムスはある時、国立公園局次長に送った手紙の中でこう言っている。「私は、生涯のほとんどにおいて解釈的表現的な側面に関わってきました。そして、当然のことながら、国立公園と自然保護区についても、科学者や政治家や行政官の目ではなく、アーティストの目で見てきました」。ここに典型的にみられるように、彼はつねに一介の芸術家であることを強調しつつ、自然保護を訴えた。これはいっけん彼の政治的な活動と矛盾するようにみえて、そうではない。なぜなら、この強調によってこそ訴えが政治的に有効に機能しえたのであり、また、どんな告発調の写真よりも雄弁に写真の中にその理念を埋め込むことに成功したからである。
 ゆえに、アダムスの写真表現に触れることは、たんに雄大なアメリカ西部の風景を見ることではありえない。それは、暗黙のうちにアダムスの自然観、つまり開拓精神を基軸とした理念に触れることにほかならない。