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[都市を貫くモダンという「気分」:「モダン東京狂詩曲展」/アサヒグラフ1993年6月11日号:85]


 一九二三年、東京を襲った関東大震災は東京を一変させた。その急速な復興の時代は、都市の風景が大きく変貌していく過程であると同時に、日本の写真表現にとっては、欧米の新たな写真の近代性が移入され、「新興写真」として展開されていく時代でもあった。 この春から、東京都写真美術館で開かれている『モダン東京狂詩曲(トウキョウラプソディ)』は、このような時代、一九三〇年代の写真に焦点を当てた写真展である。
 今では、ふつうカメラと言えば小型カメラを指すものだ。しかし、三〇年代という時代を振り返ってみると、いつでも携帯可能で迅速な撮影を行うことができる小型カメラは、まさに写真に新しい視点を与える可能性に満ちたカメラとして、その姿を現したばかりである。
 同展に展示されているのは、その小型カメラによる、スナップ・ショットという新たな手法で、変わりゆく三〇年代の東京を捉えた、大久保好六・師岡宏次・桑原甲子雄・濱谷浩の四人の写真家の写真である。
 現在から見ればノスタルジックに見える東京の姿、人々や街並みに向けられたそれぞれの写真家のニュアンスの違いが興味深いのはもちろんだが、ここでの写真からそれ以上に強く感じられるのは、都市と写真を貫いているモダンという「気分」であろう。見上げたり見下ろしたりするアングルの斜めの構図、強調される光と影といった共通した手法の中にみられるのは、得体のしれないモダンという「気分」を糧に、それを動力として新しい表現を見出そうとする意識である。
 このことは、資料として展示されている、渡辺義雄・堀野政雄の写真を、板垣鷹穂・村山知義などが構成した当時の雑誌に、より明瞭に現れているだろう。むろんそれらは今日から見て、目新しいものではない。しかし、それゆえに感じられるのは、ある「気分」が「公的」や「私的」ということを超えて、「同時代」という動きのなかで「大衆」を形作っていくことに対する逃れ難い魅惑である。この魅惑は、しかし同時におそらく、モダンという「気分」の陥穽でもある。あるいは、この陥穽がモダンという「気分」を魅惑的なものにしたといってもいい。
 こうして同展を見るとき、三〇年代の東京の写真は、ただノスタルジックであるばかりでなく、ある生々しい経験の質を伝えてくる。というのも、現在の私たちもまた、このような「気分」という「同時代」と、いささかも無縁でないところにいるからである。