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[PHOTOS ON BEAT:ビート影響下の写真家/STUDIO VOICE1992年7月号:36-37]


 「意図的に悲惨な光景を探し求めた、偏見に満ちたでっちあげである」。ロバート・フランクの『アメリカ人』が出版当時に受けた評価は、このような弾劾か、あるいは忌避であったといわれている。こういった逸話は、スイス生まれであり異邦人の視点を持ち、放浪によってアメリカの影を露出させたという単純明快なフランク像を得るには充分なものではあろうが、いまなおアメリカ現代写真のはじまりとして記される、ある種のアメリカ写真の伝統をその変形によって受け継いだフランクの存在とその広大な影響力を考えるためには、いささか短絡的にすぎるように思われる。
 たとえばスーザン・ソンタグは『写真論』のなかで、ウォーカー・エヴァンスとフランクを併置しながら、「偉大なアメリカの写真的肖像とみなされる写真は、貧しい人や追い立てられた人たち、この国の忘れられた市民に対する、ドキュメンタリー写真の伝統的な嗜好を反映し続けながらも、わざと被写体を特定しないできた」と、両者の仕事の親近性を述べている。また、50年代以降のアメリカの写真を考察した『アメリカン・フォトグラフィー』の著者ジョナサン・グリーンもまた、ニューヨーク生まれのウィリアム・クラインが80年代に入るまで反発・無視されたのに対し、フランクは真に伝統的なアメリカの写真家として認められてきたことを指摘する。フランクの写真に対して共存するこのような拒絶と承認、伝統の解体と伝統の継承という両義的な側面はいったい何に由来するものなのか。これを考えるとき重要になってくるのが、ビート・ムーヴメントとフランクの連関をみる視座にほかならない。
 1924年にスイス、チューリッヒに生まれたロバート・フランクは、10代にして写真家を志し、18歳の時にすでに映画のスチール写真家として仕事をしている。そして1947年には、『ハーパース・バザー』のアレクセイ・ブロドヴィッチに雇われて、ニューヨークにファッション写真家として渡る。この後の数年間の活動はおおよそ次のようなものである。48年−ペルーやボリヴィアに旅行。49年−ヨーロッパへ旅行、後にずっとフランクの写真集の出版などの企画を行なうことになるデルピールにパリで出会う。50年−ニューヨーク近代美術館のエドワード・スタイケン企画による『51人のアメリカの写真家』に選出される。52年−スタイケンにチューリッヒで会いフランクも出品する『戦後ヨーロッパの写真』『人間家族』の企画のための調査を手伝う。53年−ファッション写真をやめ、フリーの写真家としての活動をはじめる。ウォーカー・エヴァンスに出会う。54年−ブロドヴィッチ、エヴァンス、リーバーマン、シャピロ、スタイケンの推薦で、外国人としてははじめてグッゲンハイム奨学金の授与が決定する。これによって『アメリカ人』に収められる写真の撮影に翌年からとりかかる。
 経済的にはともあれ、20代の作家としては恵まれたものではあったはずの、フランクのこのようなアメリカでの滑り出しから読みとれることが二つある。一つは、社会や理念といった個人を越える力に写真表現が向けられるという意味では、報道写真にしても芸術としての写真にしてもそれ自体の価値が疑われなかった時代から、個人を越える力そのものが疑われると同時に、写真それ自体の自明な価値が不確かになり個人的な視点が強調される時代に移行していく、写真の根底的な価値の変転の兆しをこの50年代の状況は孕んでいること。もう一つは、こういう時代の在り様を敏感に裏打ちするように、ニューヨークに渡ってから様々な人間や出来事に関わりながらも、けっして一ヵ所に安住しないフランクの生活態度は、あらゆる自明な価値が不確かになっていく時代における、実践としての自己への探求の姿勢を示していることである。
 そして50年代後半には、国家や組織に順応するスクエアな価値観に対抗し、解放された個性の自然発生的な力に裸で向い合おうとするこのような姿勢を共有する、詩人・画家・ミュージシャンなどのアーティストのコミュニティーが、グリニッチ・ヴィレッジからローアー・イーストサイドに非固定的に形作られ、フランクもまたアルフレッド・レスリーやデ・クーニングが近隣に住む10丁目のロフトに住むようになる。こうした生活の中で、フランクはジャック・ケルアックと出会い、フロリダに一緒に旅し、ケルアックは『アメリカ人』のグローヴ・プレス版(アメリカでの初版・1959年)に序文を寄せる。「太陽が街路を焼き、ジュークボックスや傍らを過ぎる弔いの列から音楽が流れ出してくる。そんなときのあのアメリカのクレイジー・フィーリング。ロバート・フランクが中古車を駆って48州の路上を旅しながら撮ったすばらしい写真のなかに捉えられているのは、かつてはフィルムのうえに映されたことのなかったそれだ」。
 だが、こういったことが起こっていった1958年には、フランクは「こそこそと追いかけ、じろじろと観察し、あげくのはてにカメラをかかえて逃げだすのはうんざりだ」と感じ、バスからニューヨークを写した作品を最後に写真から離れ、映画を手がけるようになる。その第一作『プル・マイ・デイジー』は、レスリーと共同プロデュース、ケルアックが脚本・語り手を担当、アレン・ギンズバーグやアリス・ニールなどが即興的な演技をしたものである。フランクはこう述べている。「映画の製作にあたって、わたしはわたしの周囲を観察しつづける。しかし、わたしはもはや、シャッターを切ったのちに顔をそむけてしまう孤独な観察者ではありえない。そのかわりにわたしは、わたしの観たもの、わたしの聴いたもの、そしてわたしの感じたものを取りもどそうとこころみる」。
 ここで重要なのは、このような具体的な人間関係というよりも、そこでの人間関係の中で、物質文明に赤裸々に対抗し、人間性の無条件な解放を直接的かつ率直に求める態度が固有の共同的な精神性として培われていったことである。「内面の独白でもって世界の真実を物語る」「あなたが感じるところのものは、それ自身の形態を見い出すだろう」「くだらない精神に囚われず熱狂する」「自分の人生を愛する」(ケルアック)。このような実践的な自己への探求として、あらゆる矛盾に内的に立ち会っていく姿勢は、ビート・ジェネレーションという世代に限定されることなく、アメリカのアンダーグラウンド・カルチュアを規定する精神性として、変形されつつヒッピー・カルチュアなどに継承されていく。この意味で、ビート・ムーヴメントとは一過性の現象ではありえない。フランク以降の写真状況も、むろんこの例外ではない。60年代に登場する「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」と呼ばれる写真家達の、分類不可能なものとしてスナップ・ショットという方法を用いる表現や、「プライヴェート・リアリティ」というタームで語られる写真を生の探求の手蔓として用いる表現は、このような精神性の質とその矛盾が導く共同的な活力を抜きにしては考えられないものである。ビートあるいは写真表現にとっての『アメリカ人』が孕む矛盾や両義性が、今日でも立ち返られるべきものとなっているのは、それが精神的起源として現在でも表現の共同性の中に活きているからにほかならない。
 こういったことを考えるとき肝に命じておかなければならないのは、少なくとも日本の写真表現にとっては、アンダーグラウンド・カルチュアにおけるこうした強力な共同性が一度たりとも培われたことがなかったことである。アメリカで生じたこのような精神性は、日本では主体性における矛盾を解消する便利な鏡として移入され、共同性を否定する「共同性」のみがぬえ的に蔓延したのだった。このことを見ずに、ビートとしてのフランクをいま振り返るならば、それはもっともビートから遠い身振りであり、フランクはそのとき、ただノスタルジックな鏡と化するのみであろう。

LARRY CLARK "TEENAGE LUST"
 二十代前半にヴェトナム戦争に従軍したラリー・クラークは、ヴェトナム戦争の波をくぐった60年代の、セックス・暴力・麻薬に溺れる若者の姿を撮った『 TULSA』の出版〔1971年〕によって一躍脚光を浴びる。60年代にあらわになったのは、つまるところ認識と存在の隔りであり、理性と非理性がもはや和解しえないことであった。クラークの写真が注目されたのは、このような時代を浮き彫りにするような、視点の転回がなされていたからである。つまり、かくあるべきという理念や認識を語るために写真を用いるのではなく、存在におけるこのような矛盾を率直に照し出すために写真を使うこと。
 自伝的ニュアンスで編まれ、1982年に出版されたこの『TEENAGE LUST』には、ヒッピー・カルチュアの姿や日常が赤裸々に描かれているのはもちろん、クラークのそのような視点が刻まれている。

DANNY LYON "PHOTO FILM"
 1942年ニューヨーク、ブルックリンに生まれたダニー・ライアンは、60年代前半にシカゴ大学で古代史を学ぶが、当時シカゴ大学が政治的にラディカルな場所だったこともあり、学生非暴力調整委員会のスタッフ・メンバー/フォトグラファーとして、公民権運動に参加する。その後、シカゴ・アウトローズ・モーターサイクリスツ・クラブのスタッフ・フォトグラファーになり、彼らの姿をスナップ・ショットで追うようになると同時に、スナップ・ショットの新しい用法に焦点を合わせた、ネイサン・ライオンズ企画の展覧会『コンテンポラリー・フォトグラファーズ』〔1966年〕に選出され、注目されることになる。公民権運動・バイクライダー・囚人・非行少年・下層労働者…とそのモティーフは移り変りながらも、反体制的な存在を主題にした彼の仕事を編年体で構成した本書『PHOTO FILM』からは、そこに流れる、60年代に自身の存在が規定されたライアンの意識を見ることができるだろう。

DENNIS HOPPER "OUT OF THE SIXTIES"
 1936年にカンザス州に生まれ、カリフォルニアに移り18歳でワーナー・ブラザースと契約、『理由なき反抗』などで俳優として活動をはじめたデニス・ホッパーは、しかし、58年には監督と衝突しハリウッド・メジャーから追放される。69年には『イージー・ライダー』を監督・主演して、注目を集めたものの、71年の監督作『ラスト・ムービー』で編集をめぐり配給元ユニヴァーサルと対立し、再びハリウッドからパージされてしまう。その後は80年代後半に復活するまで、アルコールと麻薬の中毒で入院を繰り返すという生活を送っている。このようにビート以降の生の矛盾を体現してしまったようなホッパーが、87年に出版した本書には、彼が出会った映画・美術・音楽関係の人間の、61年から67年の間に写されたポートレイトが収められており、二重の意味で60年代のカルチュア・シーンの一面を鮮明に照し出している。

GARRY WINOGRAND "WOMEN ARE BEAUTIFUL"
 「私はあるものが写真になるとどのように見えるかを探るために写真を撮る」。この単純明快なゲリー・ウィノグランドの言葉ほど、フランクにはじまり60年代から70年代にかけて方法化されていった、アメリカ現代写真におけるスナップ・ショットに対する態度を明確に規定したものはないだろう。と同時に、このような態度を徹底して明確に実践した写真家もまた、彼の他にはいまい。
 彼の二冊目の写真集であるこの『WOMEN ARE BEAUTIFUL』では、街路に出る女性を発見することと、写真的な発見の交差が、スナップ・ショットにおいて照し出されている。これによってウィノグランドは、ストレート写真が非主題的な側面においてどれほど複雑なことを語りうるかを証し、ここで示されたスナップ・ショットという技法に対する新たな発見そのものが、彼に続く世代に大きな影響を与えていったのである。

ROBERT FRANK "THE AMERICANS"
 不安定なフレーミング、不鮮明な画像、沈んだ調子、日常的な場面の影……、『アメリカ人』についていわれてきたこれらの形容は、今日ではさほど新鮮ではあるまい。というのも現在の写真表現は、すでに何らかの意味で逃れ難くフランクとフランク以降の写真表現の影響下にあるからである。
 だが『アメリカ人』には、様々に形容される彼の視点とともに、自身の生を語った『THE LINES OF MY HAND』などのフランクの他の写真集とは違った、明白な主題がある。写真によってアメリカを語り直すこと。現在の私たちに必要とされるのは、『アメリカ人』を見ることでフランクが見出した視点に埋没することではなく、アメリカを語るという伝統的な主題を、彼の視点がいかに変形し継承したかを、具体的に考えてみることではないだろうか。

TOD PAPAGEORGE "WALKER EVANS AND ROBERT FRANK:AN ESSAY ON INFLUENCE"
 トッド・パパジョージは写真家であると同時に、ゲリー・ウィノグランドの『PUBLIC RELATIONS』の編集や、この『ウォーカー・エヴァンスとロバート・フランク−その影響に関する試論』などの仕事によって、フランクの作品やそこで見出された写真の質の実践的・批評的位置づけに大きな役割を果たしている。巻頭でパパジョージの小論が展開されるとともに、エヴァンスの『アメリカン・フォトグラフス』とフランクの『アメリカ人』の写真がその類比的な関係によって対向ページに載せられている本書は、随所で指摘されるエヴァンスのフランクへの影響が具体的に見ることができる、たいへん興味深いものである。
 なお、写真家としてフランク以降の写真の質を実証的に検証していく彼の仕事は、『THE SNAP-SHOT』や『AMERICAN IMAGES』などのアンソロジーで見ることができる。

WALKER EVANS "AMERICAN PHOTOGRAPHS"
 ウォーカー・エヴァンスは、30年代にFSA(米国農業安定局)が企画した農家の惨状を写真で記録するプロジェクトの仕事によって大きな評価をえることになった。しかし見過ごされてはならないのは、今では伝統的なドキュメンタリーの様式として定着している彼の写真が、独特の写真の抽象化によって導かれたものであることと、それが1920年代にパリに留学し、ニューヨークで一つの職にながく就くことがなかった彼のボヘミアン的な姿勢において培われたものであることだ。この『アメリカン・フォトグラフス』はフランクが『アメリカ人』を作る際にテクストにしたものであり、『アメリカ人』の一部が出版に先立って『U.S.カメラ・アニュアル1958』に掲載されたとき、エヴァンスがそれを高く評価したという具体的な関係もあるのだが、着目されるべきは、それよりも深いところでエヴァンスがある種の写真家とその精神性のモデルになっていることだろう。

STEPHEN SHORE "UNCOMMON PLACES"
 1947年ニューヨークに生まれ、幼い頃から写真家を志し、15歳のときすでにウォーホルのファクトリーに出入りし、ファクトリーに集う人々のスナップを20歳で出版してデビューしたスティーヴン・ショアは、少年の頃からニューヨークのカルチュア・シーンのなかで育った早熟な経歴の持ち主である。フランクが後の世代に与えた単純ながらも重要な影響のひとつに、アメリカを車で旅して写真を撮るというスタイルがあるが、『UNCOMMON PLACES』でショアは、大型カメラとカラーというフランクとは対極的な機材を用いて、アメリカ各地の風景を写している。『ニュー・トポグラフィクス』や『ニュー・カラー』という80年代の写真表現の潮流において評価されている彼だが、この対比からはそれとは違った、フランクの『アメリカ人』の視点とスタイルそのものを形式化していくショアの仕事の側面を見ることができる。

DENNIS HOPPER "OUT OF THE SIXTIES"
 1936年にカンザス州に生まれ、カリフォルニアに移り18歳でワーナー・ブラザースと契約、『理由なき反抗』などで俳優として活動をはじめたデニス・ホッパーは、しかし、58年には監督と衝突しハリウッド・メジャーから追放される。69年には『イージー・ライダー』を監督・主演して、注目を集めたものの、71年の監督作『ラスト・ムービー』で編集をめぐり配給元ユニヴァーサルと対立し、再びハリウッドからパージされてしまう。その後は80年代後半に復活するまで、アルコールと麻薬の中毒で入院を繰り返すという生活を送っている。このようにビート以降の生の矛盾を体現してしまったようなホッパーが、87年に出版した本書には、彼が出会った映画・美術・音楽関係の人間の、61年から67年の間に写されたポートレイトが収められており、二重の意味で60年代のカルチュア・シーンの一面を鮮明に照し出している。