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[写真論をめぐる本:写真の多義性と曖昧さへ、積極的に向かうための20冊/STUDIO VOICE1992年6月号:64-65]


写真論とは何か?

 この問いに対しては、じつにさまざまな答えが考えられるだろう。写真論とは、と考えたときに、まず私たちは写真について語ることの多義性に突き当たるだろうし、そうした多義性をいやおうなく孕んでいる写真というメディアの特性に迷い込むだろう。こうした事情から、いっけんさらに本質的にみえる「写真とは何か?」「そもそも写真論は可能か?」といった問いが引き出されてくることもあるだろう。また、このような曖昧さ自体を、写真や写真論の魅力として捉えてみることも可能だろう。
 むろん、写真をめぐるこういった事情はたいへん興味深い。しかし、これが興味深いといえるのは、いまこの時点において、それが今日的な問題として見直されているときに限られよう。つまりこのような写真の曖昧さが、問いの回答を無限に引きのばす口実としてのみ用いられているとすれば、その有効性はどこにもない、それは明白だ。このことを明確にしておくために、「写真論とは何か?」という問いを転倒させておこう。すなわち「何を写真論として読むか?」という問いへと。
 あたりまえのことだが、「写真論とは何か?」という問いは、写真論に属するわけではない、それは読むという行為に属して考えられるべき問題なのだ。写真の多義性も曖昧さも、それが読むという行為において生産されるときはじめて、積極的な意義や魅力をおびてくるのである。
 ここでとりあげた書物は、かならずしも同じ観点においてではないが、そのような行為のための、とりあえずの契機として選ばれたものである。これらの書物をどのように読むか。はじめの問いの回答は、そこでおのずと引き出されてくることだろう。

ロラン・バルト『映像の修辞学』(杉本紀子/蓮實重彦訳)朝日出版社

映像の修辞学 (1980年) (エピステーメー叢書)  写真を「コードのないメッセージ」として考察した二編のエッセイを収めた本書は、「写真はコードのないメッセージである」という符牒を流布させたが、その一方でこの定義が記号論的分析から導かれたものであることについては、ずいぶんと消極的にしか評価されなかったようだ。ロラン・バルトはここで、たった一枚の広告写真から「イメージの修辞学」を、新聞の報道写真という限定から「写真のメッセージ」を書いたのだった。この大胆な明解さと、記号論的探求の位相こそが、今日ふたたび着目されてしかるべきなのではないだろうか。

鈴城雅文『写真=紙の鏡の神話』せきた書房

 70年代、「写真を撮るということ、それはの思考、の視線を組織化することである」と語った中平卓馬が突き当たったアポリアについては、さまざまな解釈がなされてはいるが、その核心を正面から論じたものは本書をおいてほかにないだろう。なぜならここでは、多くの解釈のように中平が語られているのではなく、中平から迂回する意思によって中平が抱えた問いが継承されているからである。このような視点から捉えたとき、「個別の写真映像とその現実の対比という位相においてではなく、写真一般を通底する写真の非アナロゴン的位相を構造的に止揚すること」という著者の企てが、いっそう際立ったものにみえてくるはずである。

スーザン・ソンタグ『写真論』(近藤耕人訳)晶文社

写真論  きわめて一般的な『写真論』という題名の本書は、しかし、写真の一般的な領域を想定して読まれるべきではない。というのもこれは、70年代の後半にアメリカの写真の伝統が新たな神話作用を形成していったことに焦点を当て、その近代性の分析として書かれた、すぐれて戦略的な書物だからである。つまり私たちはここに記された「写真を収集するということは世界を収集することである」、「今日、あらゆるものは写真になるために存在する」といった一般論に学ぶのではなく、「写真術は現在に関しても即席のロマン主義を提供する」といった痛烈な批判にこそ注目しなければならない。

西井一夫『写真というメディア』冬樹社

 本書の4章「写真の歴史学」で展開される、日本の写真の30年代から70年代後半に至るまでの歴史観は重要である。なぜならひとつは、『カメラ毎日』の編集者であった西井一夫の視点は、とかく曖昧な解釈に埋没しがちな日本の写真史をきわめて明快に図式化してみせるこによって、私たちに簡潔な見取り図を提供してくれるからだ。そしてもうひとつは、その視点が、「必要なのは〈見る−見られる〉という交感を持った構造的な眼なのであり、それが〈写真の眼〉なのだ」という、今日なお何らかの意味で強い影響力を持った主張に基づいたものだからである。そしてこうした観点から本書全体を読み返すとき、この本が二重の重要性を帯びたものであることに読者は気づくだろう。

大島洋(編集)『写真装置#7−写真論のパラダイム』写真装置舎

 80年代前半に12号まで出された大島洋の編集による『写真装置』は、それが写真雑誌ではなく写真論誌であったという点で全号が注目されるべき雑誌である。そのなかでも写真論の特集として編まれたこの号は、大島洋の丹念な資料の掘り起こしによる、日本の20年代からの写真論の抄録と編年史が掲載されており、写真論を見直すための優れたガイドラインを提供してくれるだろう。写真論を考えるための、必携の一冊である。

飯沢耕太郎『『芸術写真』とその時代』筑摩書房

 日本の近代写真については、80年代の後半にいくつもの企画が展開されたので、今日では私たちになじみのあるものになっているだろう。しかし、ほんの10年前にはそうではなかった。本書は、それまで必ずしも充分に注目されていたとはいえない日本の近代写真を、資料の掘り起こしからはじめ、積極的な評価によって写真史に位置づけたパイオニア的な仕事の一つであるといってよい。また著者がいう、「最終的には『芸術写真とその時代』を一章とするような、広がりと厚みを持つ日本写真史がめざされなければならない」という提起を受け止める意味でも、丁寧に読み返されなければならない一冊である。

『光画』(復刻版)「光画」刊行会

 1932〜33年に18冊刊行された雑誌『光画』は、日本の近代写真を考えるとき欠かすことのできない資料であるが、これまでは500冊程度といわれる発行部数だったことから、なかなか目にすることが難しかった。しかし、その復刻のおかげで、現在の私たちは比較的容易にその姿を見ることができる。
 「『藝術寫眞』と絶縁せよ。既成『藝術』のあらゆる概念を破棄せよ。偶像を破壊し去れ!そして寫眞の獨自の『機械性』を鋭く認識せよ!」という伊奈信男のマニフェスト、「寫眞に歸れ」を創刊号に見つけるとき、私たちは『光画』によって刻まれた日本の写真の近代性に気づくことになる。

金丸重嶺『写真芸術』朝日選書

写真芸術  かつて『新興写真の作り方』を著した金丸重嶺によって書かれた本書は、写真を新しい芸術として捉える、つまり「すべての創作的なコミニュケーションのメディアのなかでも、純粋なビジョンの核心にふれ、その存在を確かめることや、自己認識を発達させる手段として大きな可能性をもっている」ものとして考える視点から、過去の写真家達の営為を捉え返した本である。本書を読み返すことは、写真が当然のように新しい表現であった時代の思考=気分に触れることであるとともに、「新しさ」あるいは「写真と芸術」という意味が、今日の写真表現では決定的に違ってしまっていることの見直しを迫られることでもある。

オットー・シュテルツァー『写真と芸術』(福井+池田訳)フィルムアート社

 ドイツにおける写真表現は、20〜30年代の“ノイエ・フォトグラフィ(新興写真)”や50年代の“サブジェクティヴ・フォトグラフィ(主観的写真)”など、独特の写真の動きを生んでいる。ドイツの美術史家オットー・シュテルツァーは、このような土壌のなかで、写真と美術の接触の歴史を美術史の側から考察しようとする。そして彼は結論をこう引き出す。「写真に撮られた芸術作品は芸術そのものを変えたのだ。写真だけが芸術のによる観賞を可能にした」。こういった視点をどう捉えるか、そのための材料として、紹介されることはあっても邦訳されることが少ないこうした論考のなかで日本語で読める本書は、貴重な視座を提供してくれるはずだ。

名取洋之助『写真の読み方』岩波新書

写真の読みかた (岩波新書)  名取洋之助は、ドイツの美術工芸学校で学びカメラマンとしても活躍し、帰国後、日本の報道写真に多大な影響を与えている。万国万人に対する文字以上の能力を持った表現手段として写真を捉える彼が書いた本書は、きわめて平易な言葉で写真の意味をいかに適確に読むかを伝えている。むろん現在の私たちはまったく逆に、多様で多義的なものとして写真の意味を捉えているのだが、だからといって本書を軽々しく扱ってよいものか。本書における彼の立場そのものの明快さは、もっと見習われてもよいはずである。

重森弘淹『写真芸術論』美術出版社

 写真が社会的正義に基づいて主題を決定するなら、方法・形式は二次的な問題となるだろうし、方法・形式のみを重視するなら、写真の社会的意義はどこにあるのか。本書が書かれた60年代中盤、もっとも深刻な課題であったこの難問に、「主題と方法・形式の弁証法的な関係に新しいリアリズムの契機を求めようとしたのがアヴァンギャルドであるとすれば、今日の写真におけるリアリズムを考えるうえで、アヴァンギャルドはいぜん重要な意味をもっている」という視点から、写真のリアリズムの意味を再考・転換したのがこの本である。ここでの問いを私たちは曖昧化することで解消してしまっているが、同じ質の問題は依然として残ったままである。それゆえ、今日的読み返しが求められる一冊だ。

田中雅夫『写真130年史』ダヴィッド社

写真130年史  本書をここで選んだことには、じつに単純な理由がある。それはこの本が日本人によって書かれた、ほとんど唯一といってよいだろう索引を備えた写真通史だからだ。この事情を踏まえて考えれば、本書の間違いの指摘や史観の批判をすることはたやすいが、それは写真通史の記述という同じ作業をとおしてなされなければ、けっきょくは空しいものだというほかない。本書は、写真史を見返すときの基本的なガイドラインを提供しているとともに、そのようなことを痛感させる本である。

ピエール・ブリュデュー『写真論−その社会的効用』(山縣訳)法政大学出版局

写真論 〈新装版〉: その社会的効用 (叢書・ウニベルシタス)  フランスの社会学者、ピエール・ブリュデューとブリュデュー・グループによる、写真にまつわる実践の意味の捉え直しの作業が本書である。ここでは、人々の行動様式から写真とは何かという結論が導かれるのではなく、その逆に、写真をやるということを通して、その実践の意味に対して主体がもつ複雑な関係と力の構造、つまり様々な階級に特有の行動様式が照し出されている。むろん、この研究内容はフランスという独特の文化に限定されたものになっているが、このような研究の主題と方法は、私たちが普段埋め込まれていてそれと気づかない、写真をめぐる力の網の目を再認させるがゆえに非常に重要だ。

ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』(佐々木基一編集解説)晶文社

 写真をめぐる論考に、必ずといってよいほど参照・引用されるのが、本書に収められた「複製技術の時代における芸術作品」「写真小史」である。「アウラ」というキーワードを軸とした、複製技術による芸術作品特有の一回性の喪失、「オリジナル−礼拝的価値」と「技術的複製−展示的価値」という対比は、今日なお私たちに優れた概念装置を提供しているといえよう。しかし見失ってはならないのは、本書が、それを受け入れる者と拒絶する者に分裂していた写真に対する認識を、繊細な両義的な思考によって捉え返し、それに革命的意義を担わせようとした実践的な試みであることにほかならない。

マーシャル・マクルーハン『メディア論』(栗原+河本訳)みすず書房

メディア論 人間の拡張の諸相  「メディアはメッセージである」という明解なテーゼによって、あらゆるメディアを簡明に分析していく本書では、当然写真にもその一項が割り当てられている。いわく「写真の時代においては、言語は図形ないし図像の性格を帯びてくるのであって、その『意味』はほとんど意味論の世界とはつながりがない」。このような考えは、80年代の写真のポスト・モダンといわれる作品・批評と通底しているが、重要なのは、マクルーハンはすでに60年代中盤にこの考えを展開していたこと、そして、本書の成果のあとに、メディアかつメッセージである人間という位相をどのように考えるかであろう。

ジャン・F・リオタール『ポスト・モダンの条件』(小林康夫訳)書肆風の薔薇

ポスト・モダンの条件 知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))  「大きな物語の終焉」「啓蒙という物語の終焉」といった符牒は、今や誰にも聞き覚えのあるものになっているだろう。ポスト・モダニズムはそうした符牒とともに、あらゆるものの恣意性・相対性を照し出したのだが、その本来的意義は、恣意性・相対性自体を思考することが不可避的な時代・段階を浮き彫りにしたことにある。つまり、ポスト・モダンとは、恣意的に選んだり退けたりすることができるものではなく、誰しも免れることのできない「条件」なのだ。むろんその条件は写真表現にも無縁ではありえないが、こと表現の領域はこのことの曖昧化に貢献しがちなようだ。いっけん写真論とは無縁の本書をあえて選んだ理由はここにある。

アンリ・ベルクソン『時間と自由』(平井啓之訳)白水社

時間と自由(白水uブックス)  意識とイマージュの哲学者であったベルクソンは、意識と物質といった二元論を洗い直し、時間・記憶・身体といった項目を持続という観点から捉え返す。写真は瞬間を捉える装置であるとよくいわれるが、実際に瞬間という概念について言及している写真論が思いのほか少ないことを考えると、ベルクソンの持続という連続的に自らを形作る創造的観点は、写真における瞬間・時間という概念を考えるための非常に重要な視座を提供してくれるはずである。とりあえず手に入れやすい一冊として、カントにおける持続と空間の混同を批判し、時間と感覚を等質的時間と具体的持続の差異から考察した本書をあげておこう。

メルロー・ポンティ『眼と精神』みすず書房

眼と精神  「まなざし」という概念は、写真を語るとき不可欠な概念であるが、捉え方によってはどこまでも問題を曖昧化させてしまう多義的な概念でもある。「見ること」を徹底した現象学的内省によって考察した本書は、この意味で、つねに立ち返られるべき書物である。つまり重要なのは、「もはや問題は空間や光について語ることではなく、そこにある空間や光に語らせることなのだ」という口当たりのよいポンティの言葉を反復することではなく、それが「私の身体が〈見るもの〉であると同時に〈見えるもの〉だ」という「謎」に直面する困難から語られていることを忘れないことである。

多木浩二『眼の隠喩』青土社

眼の隠喩 視線の現象学 (ちくま学芸文庫)  写真表現における、60年代末のラディカルな季刊誌『プロヴォーグ』の同人でもあった多木浩二は、80年代に入って「さまざまなまなざしを介した人間の世界へのあらわれ方の様態を描く」作業を開始する。本書では、隠喩としてのまなざしを軸に、空間や図像や写真のなかにあらわれた人間の様態が読み込まれていく。写真表現を送り手/受け手という枠組みで考えるのではなく、写真がそれ自身に刻み込んでいた表現を読み込んでいく方法での、日本での先駆的な考察である。今日の私たちは、このような考察がリアリティを持つはじまりを本書によって確認すると同時に、このような考察がどのような視点によって可能になっているかを問い返すべき地点にいる。

伊藤俊治『写真都市』トレヴィル

写真都市 CITY OBSCURA 1830→1985  主体が表現することそのものが孕むジレンマにおいて写真表現が捉えられていた70年代に対し、本書『写真都市』は「写真は都市のメディアである」という新鮮な枠組みを持ち込むことによって、80年的な写真表現の到来を告げたといっても過言ではあるまい。ここで展開される「都市と自然という二分法があるのではなく、都市と人間という区分けがあるのではなく、あるのは都市の感受性を背負った『何か(イメージ)』であり、都市の無意識に浸透された『我々(メディア)』である」という写真/都市=メディアの一元論、写真都市という象徴をいかに乗り越えるか、それが私たちが等しく直面している課題であろう。