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[生のdiagram:鈴木清写真集[天地戯場]の内在を"読む"試論/鈴木清写真集『天地戯場』1992年6月刊・添付テキスト]


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 ここで示されそして語られているのは、〈私〉と〈写真〉の連関における諸々のイメージの配置であり、あるいはその連関の配置の形態を写真集=本として形作ることである。しかし、むろん〈私〉は〈写真〉に還元できるものではないし、〈写真〉は〈私〉に還元できるものではない。この単純な事実を忘れずにおこう。
 写真を示すことと語ること、この両者は違った性質のもとにおかれている。写真を示すことそのものは語られえないし、語ることそのものが示されることはない。だからといってこれは、両者がつながりのない項目であるということではない。たとえば本という形態が導く運動において写真は自らを示し同時にかつ語り、示すことと語ることが交錯する場面を作り出すのである。
 他方、〈私〉という存在について考えてみるならば、写真における見る/撮るといった営為は、はたして同一的な存在としての〈私〉の行いなのだろうかという問いがある。たとえば、或る物を見ることとそれを撮ることは明らかに違った営為であるし、撮ることと撮られた写真を見ることはまったく違った位相に属する行為である。諸々の営為を〈私〉が行うがゆえにそれらが同一的なのではなく、こういった諸々の営為が交錯する場面こそが写真における〈私〉という経験を作り出すのではないだろうか。
 すると、表現を〈私〉と〈写真〉の連関として捉えることとは、〈私〉と〈写真〉が融合する場面を探ることではありえないだろう。そうではなく、これらの〈私〉と〈写真〉の抽象化の過程の内で見い出される非対称的な場面を、いかに捉え、変形し、作り出すかを探ること、つまり、虚構の生と生の虚構の狭間を照明する方法を作り出すこと。鈴木清による〈私〉と〈写真〉の連関における諸々のイメージの配置とは、このような実践にほかならないのではないだろうか。

2
 このような実践において、〈私〉と〈写真〉の連関は少しも自明で明証的なものではないだろう。ここでの方法とは、したがって、その連関そのものの不透明さを明らかにしようとする〈私〉の遡行に保障されたものではなく、いっけん自明で明証的な〈私〉と〈写真〉が、その連関においていかに不透明であるか、どれほどまでに不可視であるかを照し出す虚構化における方法となるだろう。
 そのいくつかを引き出してみるならば−−、
■抽象性を写真という引用符に括り〈私〉と同一化するための引用ではなく、諸々の抽象化を虚構化へと導くために引用を方法として用いること。引用の引用による引用符の欠落/浮上という二重化を導き出すこと。これはとりわけ〈私〉自身に対して用いられるだろう。夢が虚構であるのは、夢を現実に対する引用符として捉える限りにおいてである。だが、〈私〉自らを写真によって引用符に括るなら、〈私〉は夢=虚構そのものを現実として生きる存在である。現実と虚構という対立がここでは、引用符の欠落としての虚構の現実性と、引用符の浮上としての現実の虚構性とに分ち難く二重化された生へと変形されるだろう。〈私〉は同時に二か所には存在できない、少なくともこの〈私〉にとっては。しかし同時に、複数の〈私〉を経験する〈私〉は確かに存在する。例えば、旅という経験はこの可能性と不可能性をもたらすものではなかったか。するとたとえば、ここでの旅とはこのような意味での引用そのものだとはいえないだろうか。
■撮る/見ることにおける記憶を、運動を本に内在化させる営為として用いること。写真は物質の記憶化でも記憶の物質化でもない。もしそうだとしたら、イメージは否定性としての記憶によって導かれた、物質に対する一瞬の反作用にすぎないということになってしまうだろう。過去は現在と連続するのではなく、過去それ自体を保存しながら、現在が過去化することを条件づけると同時に現在を現実化する。記憶をこのような運動として捉えること、それは過去のために現在を用いる遡行ではなく、現在のために過去を用いることである。撮る/見ることにおけるこのような運動のさなかで、〈写真〉は〈私〉の潜在性を明確化し、〈私〉は〈写真〉を現実化する契機となり、ここで、〈私〉と〈写真〉の連関において現在を過去化するとともに現実化するものとしてのイメージの配置が形成される。
■これらの方法によって示しそして語ることによって、互いをパロディ化する諸々の位相における写真それ自身の交錯と、そこで語られる〈私〉が、示しそして語る〈私〉とはつねに擦れ違っているパラドクスを鮮明化すること。このような〈私〉のパラドックスとは、この営為によって自身を突き抜ける可能性を夢見るものではなく、〈私〉について語ろうとする営為の内で、それをパロディ化において巡回することによって、非=主題的にのみ照し出される〈私〉の非=唯一性にほかならない。

3
 こういった意味での写真集=本とは、諸々の位相における写真それ自身の交錯によって〈私〉という経験を作り出すその一方で、イメージを〈私〉に収斂させるのではなく、まさしく〈私〉とその不可能な外との連関を描く配置として浮かび上らせるだろう。だが、このイメージの配置そのものを受け取るのが読者なのではむろんない。このイメージの配置は、見る/読むという具体性によって、非対称的な軌跡を描く図表としてのみ現実化されるものにほかならない。そして、この意味での読者もまた、具体的でありながら非=唯一的な、虚構の生と生の虚構の狭間の照明としての存在なのである。