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[主体性が「現在」においていかに写真の今日性と結ばれうるか:『写真=その「肯定性(フェミニティ)」の方位』鈴城雅文著・書評/週刊読書人1992年9月28日:?]


 《〈私〉という「観念の大親分」と絶縁し、そこから世界と自己の、写真と自己の出合うべき磁場を手探ること――》。この態度表明は、私という存在に対するおよそ矛盾した表現で二重化されている。鈴城雅文の写真をめぐる評論は、つねにこうした立場から語られてきたし、『写真=その「肯定性(フェミニティ)」の方位』においてもそのことは変わっていない。
 私たちにとって生とは内部から生きられるものであり、生の意義に関して本質的な意味を探ることができるのは、内部から問うことができる場合のみである。この前提に立って多くの先達たちは、自己の存在についての考察を繰り返してきた。そこでは、私たちは誰しも、無意識的に秩序化された日常的世界に安住している〈私〉を持ちながら、他方において、そのような存在であるよりはより本来的であると思われる自己を疎外しているという矛盾に出会うことになる。しかし、このような矛盾に出会うことこそが、内部から世界を描写する条件にほかならない。
 本書を興味深いものにしているのは、いささか時代錯誤にもみえるこのような条件に規定された立場が、写真の今日性をいかに語りうるのかということにつきるだろう。世界が自己の外部に生起し、それに対して対立・同化する自己があるという関係にではなく、自分自身に内在する矛盾の内にこそ世界は描きこまれている。だからこそ、自己という存在の矛盾について語ることは、何よりも世界を表現することになる。鈴城はこのような矛盾を、肯定性=フェミニティとして捉え返そうと試みる。
 肯定性=フェミニティというタームに、鈴城は何をみようとしたのだろう。おそらくそれは、本書の主題の一部やその語感から容易に想像される「女性原理」に直接かかるものでもなければ、その用いられ方がいっけん示す実体的な位置でもない。というより、このタームは本書のどこにも定義されてはいないのである。このことは鈴城自身が明瞭に述べている。《「肯定性(フェミニティ)」は両義としてしか成立しようがない》。これをいいかえてみるなら、肯定性=フェミニティとは、自己の精神の内部において互いに絡み合う関係性であるといえよう。
 自己の存在とは、自分の中に作られている諸々の関係性の総体であり、その人間に固有な実体ではない。とすれば、ここでの肯定性=フェミニティとは、この世界の現状と結ばれた関係、そしてそのような関係を変革していこうとするもうひとつの関係が、自己の存在の中で対立しつつも重なり合う矛盾の様相であろう。その様相を鈴城はベンヤミンを借りつつ、写真の無意識というタームのもとで次のように語る。《相互に代理を不要/不能としたそれぞれの無意識が、直接性をもって構成する関係性の磁場》。この一文はほとんど解読不可能なほどの混乱に満ちている。そして同じように、様々な実際的な場面をめぐるそのみかけにもかかわらず、本書はたんに状況を語っているだけではなく、その姿を借りつつ様々な場面にありうべき矛盾と混乱を繰り返し語っている。しかし、このような観点から導き出される主体性だけは、現状の関係性を変革しうる意思としてきわめて明確に規定されているように思われる。肯定性=フェミニティとはこの主体性にかかるものにほかなるまい。この主体性が「現在」において、いかに写真の今日性と結ばれうるのか。鈴城が本書で直面したこのアポリアは、今日の私たちが等しく抱えるべきものでもある。